解説 令狐浚(令狐愚)
-学三設定-
杜畿や劉馥などと並び称される名棟長・令狐邵の従姉妹。太原王氏の棟梁である王凌の母方の従妹にも当たり、幼い頃からその取り巻きとして常に行動を共にしていた。頭の回転が速く、行動を取り繕うことに関してはピカイチの才能を持っていたといい、王凌にはその聡明ぶりを愛された。
特別他人に横暴を働いたわけではないが、とにかく屁理屈で他人を丸め込める能力を「王佐の才」と勘違いした挙句鼻にかけているフシがあり、身に合わぬ大望を常に有していた。この表面上の才知を周囲はもてはやしたが、令狐邵は「こんなヤツが大成できたら堪らないよ。絶対こいつはどっかで尻尾を出して大失敗するさ」と常々言っていたと言っていた。実際王凌経由で并州校区で対烏丸高校の折衝役になったとき、その総責任者であった田豫が些細な失態を起こしたことを大袈裟に吹聴したことが仇になって曹丕がブチ切れて処断寸前になったが、後に王凌の取りなしで赦されたもののその時にも屁理屈を揮い、呆れた曹丕が「アンタみたいなアホンダラにはこれ以上構ってられないわ」と吐き捨てたのを恨みに思ったのか、嫌みったらしく「令狐愚」という名前を堂々と名乗った。以後も(何故か)重職を歴任するも性格は改まらず、以前の発言をどこかで聞いていた令狐浚から嫌味を言われた令狐邵は「こいつは今に必ずヘマするし、あたしはどうか知らんけどあんたは巻添えだろうねえ」と、実妹の令狐華に告げたという。
やがて王凌の人脈を活かして曹爽にも気に入られ、その側近を務めて後に兗州校区総代に栄転。曹爽が司馬懿のクーデターにより失脚すると、危機感を覚えた令狐浚は王凌と謀って「楚の君」曹彪を旗印に、司馬一家から政権を奪取する計画を練るも、バレそうになったため階級章を返上して王凌の元から逃亡する。しかし計画が明るみに出ると、階級章を返上したにもかかわらず捕縛されて処罰されそうになったが、あるとき気まぐれで危機を救ってやった馬隆という少女が彼女を庇って赦された。彼女はこれまでの自分の行動を恥じ、王凌には赦されたがその元には戻らず学園をあとにした。ちなみに当時弘農棟長であった令狐華は関係が離れすぎていたこもあって特に罪には問われなかったという。
-史実・演義等-
令狐浚(令狐愚) ?~二四九
字は公治、太原郡の人で、名官吏として知られた令狐邵の一族。また、王凌の姉妹の子にあたる。
令狐浚とは元々の名前で、黄初年間(二二〇~二二六)に和戎護軍の役職につき、おりしも烏丸校尉の田豫が僅かな過失をしたことを勝手に処罰したため、曹丕の怒りを買って投獄されてしまった。その際、令狐浚を告発する勅書に「お前はなんと愚かなのだ」と書かれたことを受けて、名前を令狐愚に改めたという(故に以後ここでは彼を「令狐愚」とする)。
令狐愚がかつて無官だった頃、それでも彼は大望を持ち続けていたので、周囲の人は「いずれはきっと令狐の家を栄えさせるだろう」と言ったが、令狐邵は「いや、やつの人柄は奔放に過ぎ、徳を収めずに高望みしているから、いずれ我が一族を滅ぼすだろう」と言ったという。令狐愚は人づてにこの話を聞き、この族父の言葉に心中穏やかではなかった。後に令狐愚は仕官を果たして多くの役職を経験すると、令狐邵に会って「以前あなたは、私が一族を滅ぼす、などといってくれたそうですが、今の私ならどうなるでしょうね?」と皮肉った。令狐邵はこのとき何も答えず、後で家族に「あいつの性格はまったく変わっていない。このままいけば確実に破滅するだろうな。わしがそれに連座させられるかは解らないが、お前たちは恐らく免れられまい」と予言とも脅迫ともつかない言葉を残した。
その令狐邵が亡くなって十数年経ち、令狐愚は正始年間(二四〇~二四八)に曹爽の長吏に、ついで外へ出て兗州刺史となった。王凌もこの頃車騎将軍・儀同三司(三公待遇の名誉職)と都督揚州諸軍事として淮南周辺の軍事権力を掌握しており、兗州から淮南地方にかけての軍権を掌握している格好になった。曹爽が司馬懿のクーデターによって処刑されると、王凌は令狐愚と共謀して、幼いゆえに司馬一族の傀儡となる危険性があった幼帝芳を廃し、楚王彪を帝位に就けて許に都を移そうと企てた。令狐愚は早速曹彪の元へ人をやり、それと誼を通じるようになったが、間もなく病死した。
令狐愚が病死して二年後、王凌のクーデター計画は事前に発覚し、王凌は自殺、曹彪も死を賜り、この計画に連座したものは総て三族(妻子兄弟の一族も含む)に及ぶまで死罪となった。令狐愚の遺体も墓から掘り返され、市場に晒し者となってしまったのだが、このとき兗州のいち武官であった馬隆(後に晋に仕え、異民族平定で活躍する名将)が令狐愚の食客であると称し、その遺体を引き取ると、私財を投じて再度埋葬してやり、墓に松や柏の木を植えてその霊を慰めた。この馬隆の行動に、兗州の士人は皆恥じ入ったという。
なお、令狐邵の子であった令狐華及びその一族は、この事件に際して令狐愚とは縁が離れすぎていると言うことで連座されずに済んだと言う。
-狐野郎が曰く-
何処にでもこういう輩というのは居る者で、言ってみれば魏版諸葛恪。といってもこいつの性格の悪さだけなら(正史に残っているという意味で)諸葛恪以上かも知れない。令狐愚本人はクーデター計画発覚前に亡くなった事で逃げきりおおせた感がすごく、むしろ死後になって族滅の憂き目に遭った一門の者こそ良い迷惑だっただろう。せめてもの救いは、当時弘農相だった従兄弟の令狐華(令狐邵の子)の一門はお咎めナシだったところだろうか。ただし馬隆が死後に彼の墓を整えてやった事から、彼に対しては何らかの善行を施していたのかも知れないし、だとすれば彼の数少ない美点でもあったろう。それにしても、「このスゴイバカ!」と主君に罵られ、それを自分の名前にしてしまったとか相当なひねくれ者具合である。いくら親戚だからって、よくこんな奴を王凌は信じたものである。
王凌にとっては縁故に当たるとあって、いずれ出番が来るかと思って先んじて令狐愚のデザインをこさえては見たものの、結局それが世に出る前にサイトが埋もれることになったのは惜しいことである。一応令狐愚に関してはお年玉企画になる予定があったらしいのだが、干支には合わないよな…そもそも未年(羊祜)の次は申年だから袁一族になるのでは(ぉ)。一応羊祜がヒツジみたいな髪型なので当然こいつの髪型は狐ベースである。