解説 法正


-学三設定-

始め劉璋に一書記として従っていた清流会系の才媛。といっても、年の離れた従姉妹がそうだっただけで本人はそんなこと割とどうでもいいと思っていたらしく、司隷周辺が政変や生徒暴動で混乱してくると、孟達と一緒にいち早く益州へ逃亡している。法正はその性格の悪さもよく知られており、劉璋に法正の人格の悪さを吹聴した者がいたためほとんど飼い殺しのような状態で長く過ごしていた。
実際にその性格はかなり悪く、ほんの些細な悪戯程度の行為に対しても例外なく徹底的に報復を行うところがあった。劉璋に対しても、自分に対する誹謗を信じ込んで腫物扱いしていることを心底恨んでおり、また常日頃から「鷹揚に振る舞う事以外に何も出来ない無能のカス」と公言して憚らず、益州派閥で唯一彼女の才能を認め親友となった張松共々、然るべき名君を奉戴して劉璋を益州から(法正個人は学園から、かも知れない)追い出そうと策を練っていた。
そんな折、張松から劉備の器量の規格外っぷりを聞いた法正は、嫌がるふりをしながらも劉備への使者となって直に会見し、その器量に惚れ込んで劉備へ益州を託すべく暗躍を開始。自ら劉備を先導する役目を請け負い、そのまま帰宅部連合の参謀として益州攻略をサポートした。この時劉璋に宛てた「親書」は慇懃無礼という言葉すら生温い、文面は丁寧だが悪意と恐喝と恨み節に満ち満ちたものだったという。そして益州が劉備のものとなると、重任を与えられた法正は、簡雍の嘆願もあって降伏した劉璋にこれ以上手が出せなくなったことの腹いせに、かつて自分の悪口を劉璋に吹聴した者を始め、これまで自分に対して悪意を向けてきた者に対して壮絶な逆襲を開始し始めた。その目に余る公私混同ぶりに辟易したある人が諸葛亮へなんとかするよう懇願したが、法正の功績の大きさと、劉備が法正を非常に信頼していることを理由に見て見ぬふりをしていたという。なおその人物がどうなったか…あえて語ることもないだろう。
漢中アスレチック攻略戦では実質的な総指揮を担当し、曹操さえもただ負け惜しみを言う事しかできないほどの見事な采配で夏侯淵を撃破し、漢中奪取を成し遂げた。だが、怪物曹操を相手取った代償はあまりにも大きく、攻略戦の間はろくに睡眠をとることができなかった法正は精神・肉体両面の負荷に倒れ、復帰困難であると見做されてドクターストップがかかり、惜しまれながらも課外活動の表舞台から去った。
何故か簡雍は法正にやたら絡みたがり、法正も苦々しく思っていながらも何故か簡雍だけは報復の対象にならなかったことでも知られる。また、諸葛亮は夷陵回廊戦で劉備が敗れ、失意のうちに学園を去った際に「考直殿がいてくれれば、あのような戦いは避けられた…否、避けられ得なかったとしても、陸伯言の軍略に対抗し得たかも知れぬものを」と嘆いたという。


-史実・演義等-

法正 一六六~二二〇
字は孝直、扶風郡眉県の人。後漢の名士法真の孫に当たる。
建安の初年(一九六)に飢饉が起こると、法正は同郷の孟達とともに蜀へ赴き、劉璋の元に身を寄せた。法正は新都県令となり、その後召されて軍議校尉に任じられたが、同僚から不品行であることを誹謗されたこともあり、重用はされなかった。別駕の張松とは仲が良く、彼らは常々、劉璋に一国を切り回せる器量がないことを嘆いていたという。
張松が曹操との会見を終えて戻ってくると、法正は張松と謀り、劉璋には曹操との縁を切り劉備と結ぶように勧めた。張松は劉備への使者に法正を推薦し、帰還後に法正は劉備の武略を高く評価し、劉備を主君として奉戴しようと目論んだが、その機会はなかなか得られなかった。暫くして曹操が漢中の五斗米道勢力征討に乗り出すと、それを聞いて恐怖にとらわれる劉璋に対し、張松は劉備を招き入れて漢中を征討させるべきと説いた。劉璋は黄権らの諫言を退けて張松の進言を容れ、使者に法正を任命した。劉備のもとを訪れた法正は、この機に乗じて益州を劉璋から強奪するように勧め、劉備はそれに従った。法正は劉璋の元へは戻らずそのまま劉備の相談役として行動を共にし、雒城へ迫る段になって、法正は劉璋へ親書を送りつけているが、その内容はあまりにも白々しく、文面こそ恭しいが内容はほとんど脅迫文に近いものであった。
益州平定の論功行賞が行われた後、劉備は成都包囲の際城門を乗り越えて降伏しようとして捕まった許靖を軽んじて、重く用いようとしなかった。法正は「許靖は確かに名声が内実を伴いませんが、その名声ゆえ重く用いられないと解れば、あなたが賢者を用いない人だという悪いうわさが立ちます。燕王が郭隗を用いた例に倣われますように(「先ず隗より始めよ」という故事を引用している)」と進言し、その一件があって許靖は重く用いられるようになった。また、法正は蜀郡太守・揚武将軍として、策略を司る役目を与えられた。
法正は僅かな恩恵に対しても応える反面、些細な恨みもしつこく覚えており、恨みのある相手には必ず後で報復したという。彼は蜀郡太守の大任に就くと、過去に自分を非難したもの数名を勝手に処刑してしまうという行動に出た。ある人がこのことを諸葛亮に訴え出て法正の権限を抑えるよう嘆願したが、諸葛亮は益州に地盤を固める最大の功労者となった法正を些細なことで糾弾は出来ない、とそれを退けたという。その理由は、諸葛亮は劉備が法正を信頼していることを知っていたため、強く言い出せなかったのだと法正伝にある。
二一七年、法正は漢中攻略を進言し、劉備も時機を得たものとしてそれを嘉した。その二年後、劉備は漢中攻略を開始し、法正は軍師として重要な役割を果たした。敗れた曹操をして「劉備如きにこんな戦略が思いつくはずがないと思っていた」と負け惜しみを言わせるほどの見事な手腕で漢中攻略に貢献した法正だったが、その翌年の二二〇年、四十五歳でこの世を去った。劉備は彼を悼んで涙すること数日間に及び、その子法邈に関内候の爵位を与えた。
法正と諸葛亮は互いに性格が合わなかったが、常に互いの能力を高く評価し合っていたという。夷陵の戦いの後、劉備が敗れて白帝に引きこもってしまうと、諸葛亮はかつて法正が漢中攻略の時に乱戦の中から引こうともしない劉備をうまく説得して引き下がらせたことを思い出し「もし法考直が生きていれば、巧く諌めて必ず(東呉遠征を)阻止したであろう。そうでなくても、彼が従軍していればこのような結果にはならなかったものを」と嘆いたと言う。


-狐野郎が曰く-

狐野郎が「学園三国志」に参画した時点で帰宅部連合の顔となっていたのは、おなじみの劉備でも諸葛亮でも、無双シリーズでは主人公みたいな扱いをされることも多い趙雲でもなければ、法正であると断言していい状態だった。正確に言うと、人格に癖はあるもののおカタイ法正と、それに粘着しまくってからかって歩くのを日課としている簡雍とペアでそう扱われていた、という感じか。良く言えばシャープでスマート、ぶっちゃけると貧乳のコンプレックスを抱える彼女にとって、連合最凶の食わせ者パパラッチ・簡雍とは名コンビということも、迷コンビということもできただろう。史実で法正が劉備に仕えていたのは(二回目に使者としてきた時からとカウントすれば)おおよそ六年ほどの期間であったが、一説に劉備は名士ぶっている諸葛亮より、どちらかというとクセモノの法正のほうをより深く信頼していたようにも見受けられる。伝では諸葛亮と法正が互いに気が合わない関係だったと記されているが、何しろパパラッチ簡雍の黒幕には諸葛亮がいるので、学三では法正だけが諸葛亮を避けているという関係というのが正鵠を射ているだろう。何気に簡雍は「蒼天航路」でも蜀攻略戦の頃に初登場している(実際は劉備が作中で言っているように古株中の古株なのだが)し、法正とも色々接点はあったんだと思うが、少なくとも正史で二人の関係性を匂わせる記述は存在しない。悪しからず。