解説 龐統
-学三設定-
荊州校区で文学サロンの中心的人物である司馬徽に「鳳凰の雛」と称えられた才女。その見た目はお世辞にも美少女とは言い難く、何処にでもいるような風采の上がらぬ地味でもっさりとした容貌であったものの、人物の真贋を見極める能力に長けており、長湖部の才女たちとも深く親交を結んでいたという。なお諸葛亮とも遠い親戚関係にあり、幼少期から面識があったようである。
その風貌から劉表に門前払いを食らうものの、周瑜は陸績を介して龐統の才能を高く評価しており、その相談役として重用した。だが龐統にしてみればあくまで「周瑜との主従関係」を結んでいたに過ぎず、周瑜がリタイアすると陸績は交州に左遷され、顧邵も学園を去っていたため荊州校区に舞い戻ったところ、たまたま帰宅部連合でスタッフ募集していたのに乗っかって下級スタッフとなった。だが仕事も退屈すぎてサボってばかりいたため、劉備の怒りを買って放逐されかけているのを初めて知った諸葛亮はサーバルばりに飛びあがって驚き、渋る劉備を引きずってきて三者面談でこれからの方針について話し合うと、劉備は己の不明を詫びて龐統と意気投合し、即時実働部隊の総参謀に抜擢した。
然るべきポジションを得た龐統は益州校区攻略戦でその鬼謀を遺憾なく発揮するも、その大詰めである雒棟決戦の中で「東州連合」最後の猛将張任率いる連合特隊の奇襲を受けリタイア。生死をさまようほどの大怪我を負わされ、一命は取り留めたものの単車に繰り返し轢き潰された左腕を失う羽目になる。だが当人は「利き腕じゃなくてよかったよ」と笑って済ませた。以後は交州校区で親友陸績と共にゆっくりと卒業まで過ごしていたが、時に簡雍とつるんでトラブルを引き起こすなど連合風紀部門の頭痛の種になっていたようだ。
-史実・演義等-
龐統 一七八~二一三
字は士元、襄陽郡の人。
若い頃から地味でもっさりとしており、風采が上がらなかったため彼を評価するものは誰も居なかったが、龐統二十歳の時に潁川の司馬徽と面談し、司馬徽はその才覚を「南中の第一人者となるだろう」と絶賛したことにより名を知られるようになった。司馬徽は清廉温雅な人物で、かつ人物鑑識眼に優れていたことで知られるが、司馬徽が龐統と面談したとき、司馬徽は桑の木の上で葉を摘みながら、龐統青年をその木の下に座らせて昼から日が落ちるまで語り合ったと言う。龐統へ司馬徽と会うよう勧めたのは叔父にあたる襄陽の龐徳であるが、その龐徳は彼を鳳雛(鳳凰の雛)に喩えた。余談だが龐徳公の子龐山民の妻は諸葛亮の次姉であり、龐統と諸葛亮は親戚関係にあるといってよい。
長じて襄陽郡の功曹となった後は周瑜に従っていたが、周瑜が不幸にも病を得て急死すると、その遺骸を呉へ送り届けて西に帰ろうとする際、既に呉に広く名声を得ていた龐統との別れを惜しんで、多くの士人が彼を見送った。龐統は人物批評を好んで行ったが、決して一方的に悪く決め付けるような批評の仕方をせず、批評された人物とは深く心を許しあったという。例えば陸績(龐統伝では「陸勣」となっているが、陸績伝の記述を鑑みればおそらく別人ではなく表記違いであろう)、顧邵、全琮を批評し「陸君は駑馬で足が速い。顧君は鈍牛だが力持ちで遠くまで重荷を運ぶことが出来る。全琮殿は施しを好み名声を慕い、飛びぬけた知力があるとは言いがたいが、やはり時代を代表する優れた人物だ」と言ったという。ある人がこれを論って「そのご品評では、陸績殿が顧邵殿より優れているということですか?」と問うと、「駑馬はひとりの人間しか運べない。鈍牛は一日に行ける距離などたかが知れているが、その代わり重い荷物をたくさん遠くへ運ぶことが出来る」と答えた。さらに顧邵が龐統の宿を訪ねて「例えばあなたと私では、どちらが優れているのでしょう?」と問うと「世俗を教化し、人物の優劣を見抜く点では君のほうが上だが、帝王のとるべき秘策を考える点については私に一日の長があるようだ」と答えた。顧邵もそれをもっともなことだとし、より彼と親交を深めたという。
劉備が荊州を支配するようになると、招かれて来陽県令の任に就いた。だが県令としての治績が上がらなかったため、劉備は間もなく龐統を罷免してしまったのだが、この話を聞きつけた魯粛は劉備に手紙で「龐統は県令程度の職務に納まるような才覚の持ち主ではありません。別駕や治中以上の職務に就けて、初めてその真価を発揮する人物です」と述べ、諸葛亮もまた同じようにして諌めたため、劉備は再度龐統を召しだして大いに語り合い、その真価を認めたうえで治中従事に取り立てた。このエピソードは民話で「落第県令龐統」として広く親しまれており、このとき龐統が毎日酒浸りだったというくだりがあるが、これは蒋琬が県令職にあった時代に大酒を飲んで失敗し、それが原因で罷免された事が元ネタであろう。演義にも取り上げられているエピソードだが、民話の中では龐統が一度に三十人以上の原告を一斉にしゃべせ、それぞれに的確な判決を下していくという聖徳太子顔負けの超人ぶりを発揮している。ともあれ要職に就いた龐統は程なくして中軍師の職に転任し、劉備の蜀攻略に従軍することとなった。
龐統は劉璋との会見後、劉備へ即座に劉璋を捕らえるよう進言したが、無用の混乱を避けたい劉備は時期尚早だとその意見を退けた。やがて劉璋が成都へ去ると、龐統は蜀攻略の戦略として「精兵を率いて即座に成都を衝く」「一度荊州へ帰還すると宣伝し、白水関の守将である楊懐と高沛の油断を誘い、白水関と涪城を制圧しそれを足がかりとして攻め上る」「荊州へ引いて次の方策を考える」を示し、それぞれ上中下の策とした。劉備は中策をとり、行く先々で軍は勝利を収め、涪城での宴席で勝利に浮かれる劉備を嗜める一幕もあった。雒城を攻略中に運悪く流れ矢に当たり、三十六歳の若さで戦場の露と消えた。
龐統の子龐宏は父と同様人物批評を好んだが、強気で飾らぬ性格から陳祇を軽んじており、その陳祇が劉禅の寵愛を受けて実権を握ると官職を追われてしまったという。また、弟の龐林は夷陵の戦いで黄権に従っていたが、黄権と共に魏へ降伏して列侯に封じられている。
-狐野郎が曰く-
「臥龍(伏龍)か鳳雛のいずれかを得れば、天下を平定するに容易い」とは演義における水鏡先生(司馬徽)の決め台詞的ななんかだが、陳寿は諸葛亮を単独立伝して、龐統は法正と同じ巻に伝を立てている。羅貫中は五虎将軍とか五覇とかそういうハッピーセット的な何かを作りたがったようだが、そもそも龐徳公の喩を基にしているというなら「臥龍」諸葛孔明、「鳳雛」龐士元、「水鏡」司馬徳操で司馬徽までがセットなんだよね本来。まあこの辺は細かい話だし、実際世代的には司馬徽の方が少し上っぽいんで同格とは言い難いんだろうけど。
蜀漢に於いてまこと惜しむべき人物であったことは正史・演義どちらを準拠としてもそう事情は変わらないだろう。龐統の戦死というのは劉備にとっては勿論だが諸葛亮にとっても想定外の事で、この時諸葛亮は龐統の死を知って荊州に関羽を残し速攻で駆けつけ、以後は蜀漢の大番頭としてのポジションに収まるのだが、諸葛亮達からすれば本来は諸葛亮が荊州を押さえ、劉備と龐統でタッグを組んで益州を切り回すプランだっただろう。幸いにも龐統の代わりは法正がいたのだが、法正が漢中攻略で力尽きてしまうのは誤算だったとはいえ、以後も諸葛亮が益州に留まり続けた理由というのもなんだったのだろう。想像の域を出ないが、法正は龐統の代行とするには、あまりに互いの意思疎通がうまくいってなかったのではと思うが、さて。
学三龐統も、基本的には正史や演義の記述準拠で基本は地味子。「蒼天航路」では隻腕のイケメンという、なかなかこれまでにないパターンの龐統像で、身体欠損は儒教的観念においてはよろしくないものということなのだろうが、もっさりというイメージではないよな。「普段野暮ったい眼鏡をかけてて、外すと美少女」とかいうメガネ・ガイ大激怒不可避案件のお約束も特に設定されてないが、そこはそこでらしいってとこか。そういえばロマサガ2の軍師の最初の奴が「シゲン」だけど、こいつが飲んだくれているのも「落第県令龐統」が元ネタなのかも知れないが、これボクオーンの登場タイミングと軍師の解禁タイミング次第では別の軍師が飲んでたりとか、皇帝継承で諸葛亮や姜維(「コウメイ」「ハクヤク」という軍師もいる)が登場したりとなんとも言えないネタがちらほら。これで三国志の人物を知った人も多少はいそう。