解説 辛評


-学三設定-

袁紹の幕僚の一人。
元々は冀州校区総代韓馥の元で事務スタッフをしていたが、そのまま袁紹の任用を受けて運営スタッフとなった。豫州校区出身派閥の領袖といってもよく、田豊や審配などの冀州派閥とは犬猿の仲であり、さらには袁紹に古くから従っていた逢紀や許攸ともいがみ合っていた。
袁紹リタイア後には審配らに対抗する形で袁譚を焚き付けて擁立するが、彼女ら「青州袁生徒会」は袁尚の勢力と曹操の勢力の板挟みになってのっけから風前の灯状態であり、辛評は起死回生の手として曹操と手を結ぶことを提案。しかし従妹の辛毘は使者として曹操の協力を取り付けることに成功するものの、その能力が曹操にえらく気に入られて戻ってこなかったため、「実は自分が曹操に寝返る布石を張っているのではないか?」と疑われたことで立場を失い、失意のうちに青州を去った。
その後辛評がどうなったかを知る者はいない。公式的には青州校区を去った時点で課外活動から除名されているのだが…。


-史実・演義等-

辛評 生没年未詳
潁川郡の人で、後漢書袁紹伝によれば、字は仲治とされる。
初め冀州刺史の韓馥に招かれてその臣下となったが、袁紹が冀州を支配するとそのまま袁紹の任用を受けた。辛評は同じ潁川出身の郭図や荀諶とは同郷人として懇意にしていたようだが、袁紹が冀州で招いた新参の田豊、沮授、審配や、元から袁紹の参謀として付き従っていた逢紀や許攸とは仲が悪く、会議の場では常に彼らと意見を異にして対立していた。
袁紹が失意のうちに世を去ると、袁紹は後継者を息子達の中からはっきりと決めていなかったことから、審配や逢紀が袁紹お気に入りの末子袁尚を擁立しいち早くその後継者に据えてしまうと、出遅れた格好になった辛評も郭図と謀って長男の袁譚に肩入れする。審配らにしてみれば、もし袁譚が家督を継いだ場合、不仲である辛評らが実権を掌握し自分たちを糾弾しにかかることが目に見えていた為先手を打ったわけだが、それでも表面上は曹操が華北の隙を窺っている状況から表面上協力体制にあった。ところが青州の袁譚勢力は戦力的にも不利な状況にあり、袁尚へ救援を要請するも送られてきたのは監軍の逢紀とわずかな兵のみで、辛評は憤慨する袁譚に「あなたが後継者から外されたのは審配の差し金です」と焚き付けた為、逢紀を血祭りに上げるとともに曹操と和議を結ぶこととなった。これは辛評の献策によるもので、曹操への使者は弟の辛毘が抜擢された。
演義では使者になった弟の辛毘が曹操の元から帰還せず、その為に二心を疑われた辛評はそのことを大いに恥じ、間もなく病を発して死んでしまったとされるが、史実ではこの後辛評がどうなったかはっきりしていない。鄴城が陥落した際、鄴にいた辛評の家族が審配によって皆殺しにされており、辛毘は悲憤のあまり捕縛された審配を馬の鞭で滅多打ちにしたという話が魏書辛毘伝にあるが、そのころには既に亡くなっていたのではないかと考えられる。


-狐野郎が曰く-

この人は本人よりも、魏書に立伝されている弟の辛毘の方がはるかに有名で、なおかつわずかに知られる事績が悪評ばかりなので結果的に「賢弟愚兄」みたいな形になってしまった感はある。演義ではその最期を見るに多少良心らしいものは持っていたようだが、実際はどうだったのか記述がない限りは何とも言えない。ただ辛毘が和議の使者となってそのまま曹操に仕える格好になっていたのは確かで、袁譚はまだしも郭図の性格を考えると辛評が何の責任も取らされずにいたことは考えにくい。袁譚が滅ぼされた後も生きていたのであれば、何の言及もされていないのも不自然であるし。兎に角資料が乏しいので、袁譚を焚き付けて兄弟戦争()をkskさせていたのと、「後に魏朝廷で活躍した弟がいる」ぐらいしかわかってないのが現状である。
というわけである意味正体不明な辛評、狐野郎は演義設定を重視し「裏審配」みたいなコンセプトで考えていたようである。袁紹のブレーンもクセモノだらけだし、その割には事績も不明瞭な部分が多いのでやりたい放題できるという考えはあったのだろうが、どうも気力がわかなかったのか設定段階で放り投げた状態になっていた。何しろあの辛毘の兄貴だからもうちょっと気骨のあるところを…と思ってたんだが、どんなもんなのだろう。さらにデザインもかなり適当だったのだが、今回リニューアルに際してデザインをかなりいじくってある。ぶっちゃけるとモデルにしたのは幽谷響子(東方神霊廟)である。(デザインモチーフが)ぎゃてみすで仲悪いとか鳥獣伎楽ガチ勢に殺されそうだがそんなの今更の話だな(震え声)。