解説 徐庶


-学三設定-

豫州校区でもそれと知られたヤンキー。
見様見真似や聞きかじりで覚えた剣術や格闘術で多くのレディースチームからも一目置かれていたが、その勧誘のすべてを蹴っ飛ばして一匹狼として振る舞った。やがてそんな生活にも疲れたのか、あるレディースチームでチーム抜けしようとしていた少女を助け出すと、彼女もそのまま豫州校区を去って荊州校区に身を寄せた。
荊州校区ではどんな切欠があったのか、襄陽図書館の司書であった司馬徽からさまざまな書籍を読むように勧められ、元々素養があったのか瞬く間に図書館中の本を読みつくすまでになった。そんな中、荊州校区に身を寄せていた諸葛亮と出会い意気投合、学園のあり方について諸葛亮やその数少ない仲間たちと語り合う仲になった。
そんな折、曹操に対抗するための軍師を探し求める劉備と出会う。徐庶は劉備の器に感じ入り、前歴を偽ってその軍師となり、曹仁や夏侯惇といった歴戦の名将が率いる軍をその軍略で返り討ちにしてのけた。当然そんな存在を曹操が放っておくはずもなく、曹操はかつて徐庶が助けてやった元レディースの少女を人質に取って脅迫。少女を放っておけない徐庶はやむなく劉備にすべてを明かし曹操の元へ去った。その際に劉備を諸葛亮に紹介しており、諸葛亮が世に出るきっかけを作った。
後に蒼天生徒会でもそれなりの役職に就いたが、徐庶の器量を知る諸葛亮は「元直殿程のものがその程度のポジションでしかないとは、蒼天会には人材が多いことだな」とその門閥政治ぶりを皮肉ったという。


-史実・演義等-

徐庶 生没年未詳
字は元直、潁川郡の人。
始めはその名を徐福といった。若い頃は任侠を好み、撃剣の名手であった事から、人に頼まれてその仇討ちを手伝い、その罪で捕らわれたことがあった。彼は逃亡の際には髪を振り乱し、顔には白土を塗りたくって正体がわからぬようにし、捕らわれた後は役人が問いかけても決して自分の姓名を答えなかった。役人は彼を車の上に立てた柱に縛りつけ、街中を引き回して触れ回ったが、誰も面識者として名乗り出なかったという。徐庶は貧しい家の出自であったが、その侠気を慕う者が多かったようで、やがて彼の仲間が彼を救い出しに来て逃れることが出来た。
徐庶は何か悟るところがあったのか、脱走後は粗末な頭巾に単(ひとえ)の衣服を身につけた貧しい身なりに改め、学問に打ち込むようになった。無法者であった徐庶の経歴を嫌った塾の同窓生は、当初彼の事を避けていたが、徐庶は謙虚な態度をとり、誰よりも早く起きて講堂を掃除し、人の気持ちを汲んで行動することを旨としたため、やがて同郷の石韜と親しくなった。
初平年間(一八〇~一九三)、騒乱が激しくなると彼は石韜とともに南方の荊州へと逃れ、その地で遊学した。やがてそこで知り合った諸葛亮とも懇意となり、新野に劉備がやってくるとその元に赴いて会見した。劉備は徐庶が有能な人物であると思ったが、徐庶は劉備に諸葛亮を推挙した。正史諸葛亮伝ではこのとき、諸葛亮のことを知った劉備は、徐庶に連れて来るよう言ったが、徐庶は「彼(諸葛亮)はこちらから会いに行くことは出来ても、無理やり連れてこれるような人間ではありません」といい、劉備自身に諸葛亮の元を訪問するよう勧めている。
間もなく荊州政権は曹操に帰順し、劉備一党は江夏へと逃れていったが、徐庶と石韜はその地に残り、曹操の任用を受けた。一説には徐庶も諸葛亮と共に劉備に随行したが、母親が曹操に捕まってしまい、劉備に「将軍(劉備)と共に王業・覇業を行いたく思っていましたが、この方寸(胸の一寸四方。心臓を意味する)においてでした。老母を失ったことで方寸は乱れ、もはやあなたの力になることはできません」と暇乞いし曹操の元へ去って行ったという。
黄初年間(二二〇~二二六)には右中郎将・御史中丞にまで位が昇った。門閥中心だった曹丕政権下で何の後ろ盾のない寒門出身の人間がこれだけの高官に昇るのも、やはりそれだけの才覚の持ち主であったことが伺える。だが諸葛亮は北伐の最中、徐庶や石韜の就いている役職を聞き「あのふたりがそんな程度の役職にしか就いていないとは、魏には人材の多いことよと、その能力無視の門閥政治を皮肉ったという(因みに石韜は典農校尉の位まで昇っている)。徐庶は北伐のあった頃から数年して病死し、その墓は彭城の地にあったという。
演義では劉備軍最初の軍師として活躍するも、その孝行振りは広く知られていたこともあり、唯一の肉親である年老いた母親が曹操のもとに半ば人質のようにして保護されていることを知らされると、断腸の思いで劉備と袂を分かった。しかし母親からの手紙と思っていたそれは、母親の世話人を買って出ていた程昱が作った偽手紙であり、徐庶の母親は息子の不甲斐なさに激怒、次の瞬間自分の首を括って命を絶ってしまった。徐庶は己の情けなさを後悔し号泣するも、不憫に思った曹操がその亡骸を手厚く葬ってくれた恩義に逆らえず曹操の元に留まった。しかしながら劉備との別れ際「曹操の為には決して策を立てない」と宣言し、以後も曹操に対して有用な献策をおこわないどころか、赤壁の戦いの直前に周瑜の大火計を察知しその難を逃れる為「北方の異民族がおかしな動きをしている」という噂を陣中に流させ、自らその対応に当たりたいと願い出て赤壁の地を離れる食わせ者ぶりを発揮している。


-狐野郎が曰く-

演義やそれに準拠する作品から三国志を知ったニュービーが、劉備軍団最初の軍師として認識するだろう徐庶。乱暴な言い方をすればその経歴はヤンキー(というかチンピラ)から学者に転換したようなイメージだろうか。実は確固とした伝は存在せず、諸葛亮伝の中でわずかに触れられている程度の人物である。とはいえ、九品官人法の施行下で門閥の後ろ盾もなく御史中丞なんて高官にまで昇進しているっていうのは尋常じゃないことで、相当な才物であったことは間違いないだろう。一応、劉備の元を去った要因に、老母が絡んでいるのは正史にも記述があるため、孝行者であったことも間違ってはおるまい。
演義では「単福(ぜんふく)」という偽名を使って劉備に仕えたことになっているが、これは羅貫中のカン違いでそうなっているとか。「単家」というのは要するに没落貴族とかの寒門の家を指す言葉で、要するに身分の低い家柄である。これを羅貫中のスットコドッコイは「徐庶が潁川から逃げる時に使った偽名(の姓)」だと思ってたらしいんだよな。生来の名は「福」で、潁川から逃げた後に「庶」と改名したのが正史の記述だが、羅貫中はテメエの勘違いしてた姓に本来の名をくっつけて徐庶の偽名としたわけだ。なるほどわからん(思考放棄)。
徐庶の名前関係で言うとSFCサガシリーズの二作目「ロマンシング サ・ガ2」の軍師クラスのキャラに「タンプク」ってのがいるけど、元ネタは間違いなくこいつだろう。まあまだ帰正史運動が本格化する前の事なんで、どうしても三国志から引用するとなれば演義準拠になるんのは仕方ないとして。龐統の項でも触れるが、ボクオーン攻略の前に軍師をスカウトできる状態になって、後年ボクオーン攻略しようすると酒場で飲んだくれてるのが他の人物になってて「あれ?」となることもあるのだが、まあ前職アウトローの徐庶だったら多少違和感もないのだろうか…?
学三徐庶は最初から最後までチョコたっぷrじゃなくて基本ヤンキーで、忍殺AoMのインシネレイトめいたインテリヤクザもといインテリヤンキーとでもいったところか。だが元のデザインが非常に近かったので、挿絵を差し替える段になって、見た目がほとんどルナサ・プリズムリバー(東方妖々夢)になってるのはぶっちゃけわざとである。特に意味はないがわざとである(重要なことなのでry)。