解説 朱拠


-学三設定-

呉郡地区の名門朱家の一族で、「湖南の狂犬」と呼ばれた猛将朱桓の従姉妹。朱桓姉妹とは異なり北方系の血筋ゆえか、明るい亜麻色の髪がトレードマーク。気は優しく力持ちというフレーズそのもののおおらかな少女で、困った者には力を貸さずに居れないという世話焼きな面があった。
夷陵回廊戦の頃に長湖部の主要運営スタッフとして抜擢され部の運営にかかわっていくこととなったが、当時長湖部内で風紀委員長の立場にあった曁艶がその潔癖症ぶりを発揮し、品行方正でない主将や運営スタッフ、マネージャー連中を全てリストアップしてまとめて放逐しようと目論んでいたことを聞きつけた朱拠はそれとなく意見してやめさせようとした。結局曁艶はこの意見を無視して自分の計画を断行しようとした矢先、些細な失策から過去の罪科を明らかにされて失脚し、呆れた孫権がこうした事から現在の長湖幹部会のだらしなさを嘆いた折に、朱拠が優れた知見を持っていることを知って実働部隊の要職に抜擢することとなった。
こうして長湖部、あるいは長湖生徒会の重鎮にまでなった朱拠であるが、その後も長湖生徒会所属校区で使用できるクーポン券の横領事件に自分の部下が絡んでいたことで処断されかかったり、挙句には「二宮事変」の解決に性急であった孫権が、孫和を孫覇諸共学外へ放逐しようとしたことを再三にわたって諌めた事から彼女自身も左遷の憂き目に会うなど、兎角間の悪さを発揮しまくり、失意のうちに学園を去ることとなった。一説には左遷された際に、孫覇の腰巾着の一人孫弘が偽の命令書をでっち上げ、階級章を返上させたとも言われる。


-史実・演義等-

朱拠 一九四~二五〇
字は子範、呉郡呉の人。呉の名門である朱家の出身で、同じ呉郡朱氏の朱桓とは従兄弟の関係にある。優れた容貌とタフさを備え、他人と議論することにも巧みであり、有能な人材には謙虚な態度で接して私財を惜しまず用い他人を援助したため、後に多くの俸禄を受けることとなっても生活は常に切り詰めていたものであったという。
二二二年頃、召し出されて五官郎中・侍御史の役職を与えられた。当時選曹尚書として幅を利かせていた曁艶は、欲深で節操のない官人が呉の幕府に溢れていることを嘆き、それらを放逐しようと目論んでおり、そのことを知った朱拠は「天下はまだ安定しておらず、過去に過失があっても有能である人物はその才能を重視すべきである。そして清廉な人物も抜擢することで、そうした不品行の者達もそれに倣ってやがては身を正していくのだろうから、性急にそうした者達を降格させたり処罰したりしたら反発を招く」と意見したが、曁艶は聞き入れなかった。結局、曁艶は些細な事件がきっかけで失脚することとなった。孫権は当時の将軍達の態度や行動があまりにもだらしないことを嘆き、呂蒙のような有能な将軍が多く居た時代のことを懐かしむことが常で、朱拠が文武の才を兼ねていることを知った孫権は、朱拠であれば呂蒙の後釜に据える事も出来ると考え、建義校尉の官職に就けて軍を率いさせた。そして二二九年、孫権は帝位に就くと、朱拠を任地から呼び戻して左将軍・雲陽侯に封じ、さらには公主の魯育(後に二宮の変で暗躍する魯班の妹)を娶らせた。
嘉禾年間(二三一~二三六)、呉では一枚五百銭(銭はお金の単位)に当たる大銭が鋳造されるようになったあるとき、王遂という貨幣鋳造職人が、朱拠の部下が受け取るはずだった大金を横領してしまう事件が起こった。その訴訟の段になり、典軍校尉として権勢を振るっていた呂壱は「朱拠自身がその金を横領した」と言いがかりをつけ、その受取人であった朱拠の部下を捕らえて拷問にかけて殺してしまうと、無実の罪で殺された部下を哀れんだ朱拠は、その部下を手厚く葬った。呂壱はさらにそのことを論って孫権に吹聴したために、朱拠は弁明することも出来ず刑の執行を待つ身となったのだが、典軍吏の劉助という人が事の真相を詳らかにして孫権に上言すると、孫権は事の次第に気付いて「朱拠までが冤罪を受けることとなれば、それより下の立場のものはもっとひどい目に合わされているに違いない」として朱拠は釈放され、結局呂壱は程なくして失脚し誅殺された。
二四六年、朱拠は驃騎将軍に昇進したが、当時は皇太子孫和・魯王孫覇それぞれの派閥が孫権の後継を巡った派閥争い(二宮の変)の真っ只中にあり、前年には陸遜を筆頭に多くの優れた人物が誅殺あるいは流刑されるなどして混乱状態にあった。朱拠は皇太子孫和を擁護し、度々孫権に意見を繰り返したが、それは心のこもったもので、また孫和を命がけで守ろうという気概にあふれていたのだが、かえって孫権の怒りを買い百打の棒刑を受け新都郡の丞に左遷された。朱拠は失意のうちに任地へ赴いたが、赴任前に中書令の孫弘が繰り返し朱拠の讒言を繰り返して行い、さらには孫権が病床にある事をいいことに詔書をでっち上げて自決を強要したため、朱拠は五十七歳で自ら命を絶った。呉主伝の記述に拠るなら、二五〇年の事であろうと思われる。
朱拠のふたりの息子は全公主(孫魯班)の讒言によって殺されたが、孫の朱宣が孫休の時代に朱拠の爵位を継ぎ、孫皓の時代には驃騎将軍に昇進した。陳寿は朱拠の人物について吾粲共々、「困難な時勢の中にあって正義を守らんがために身を滅ぼした。悲しいことである」と評している。


-狐野郎が曰く-

「二宮の変」では本当に多くの心ある名臣・賢臣が誅殺され、あるいは流罪の末に死を賜るなど非業の死を遂げている。陸遜を筆頭に顧譚、張休、吾粲などなど、その顔ぶれだけでも新しい国を建てようと思えば十分に出来ただろうすさまじい面々であるが、朱拠も十分この中に加えて異論のない人物であるといえよう。なお朱拠を殺させた孫弘のクソヤロウは、こともあろうに孫峻経由で諸葛恪に誅殺されたらしいからまさしくインガオホーであり、そこまでされる謂れは十分にある。
朱拠が朱桓の血縁者である事はその伝にも明記されており、朱異の項でも幼い頃の朱異に賦を即興で作らせるテストをしてみたり意外にちらほらとその名が見えるものの、華々しい戦働きが見られなかったこともそうだが、なにより「二宮の変」自体がオミットされているために演義にその名を見出すことは出来ない。そもそも朱拠伝にもなんだか冤罪に次ぐ冤罪で散々な目に遭っている話ばかりで、能力は確かでそれも認められていたけれども、そのために顕職へついてしまったのが運の尽きだったと言わんばかりの業績(?)である。というか妹とその子供、要は甥っ子まで容赦なく始末していった孫魯班の邪悪さの引き立て役の一人とすら言えるかも知れない。哀れ過ぎないかこの人?
学三では2004年の正月祭り、吾粲のお話で初登場しており、翌年にはキャラスレにおいて玉絵が描き下ろされている。担当絵描きの言葉じゃないが、萌え化企画でここまでやってしまった言う学三環境はマジでクレイジーかも知れぬ(賛辞)。後年には三国志大戦にも登場しているが、そもそも演義にすら登場して無いって事は一般的にほぼ知られてないんだしねえ。