解説 陳琳


-学三設定-

曹操を中心とした「蒼天生徒会」所属下で、「七本槍」ならぬ「七本筆」と呼ばれた書道と文筆の達人。
元々は蒼天生徒会運動連合総帥を務めた何進の書記を務めており、何進粛正後はその縁もあって袁紹専属の書記となった。無駄なく正確なタイピング技術もさることながら、筆を手にしたときの彼女は「タイピングよりも筆で書いた方が早い」という凄まじい速筆と、それでいて幼少から培われた雄壮で見る者の心を打つ美しい字体は学園随一とされ、さらには「文章を書くこと」においてその才覚は唯一無二とまで言われたことから、官渡公園決戦の際には曹操へ対する檄文の制作まで任された。しかしその檄文は陳琳が考えたものではなく、主に郭図や辛評が曹操に対する真偽定かではない悪評までを盛り込んで書いた草稿を原本にしていたこともあり、当然それを読んだ曹操はまずあることないこと問わず悪口雑言満載の内容にブチ切れ、次の瞬間陳琳の手による雄壮流麗な書に逆ギレし、更には洒脱に富んだ見事な文面に三度大激怒。完全沸騰した曹操は「これ書いた奴だけは絶対に乱戦の中で飛ばさずあたしの前にふん縛って連れてこい!!万が一飛ばさせた奴も惨たらしく処刑して学外追放にしてやる!!」と全軍に無茶な軍令を発令した。当然ながら全軍血眼になって陳琳の姿を捜索しまくり、鄴棟陥落のドサクサで逃亡しようと計るも日頃の運動不足もあって呆気なく陳琳は捕縛された。当然陳琳も曹操のキレっぷりを風の噂で聞いていて「絶対ただ殺されるだけじゃ済まされないんだぁ…」と絶望したが、陳琳を自分の前に引きずり出した曹操は「あんなクソ巫山戯たデタラメを書くためにあんたの貴重な才能を使うとかマジで許さないから!!以後はアンタをあたし専属の書記として卒業までこき使ってやるから覚悟しろ!!」とキレながらその縄目を解いた。
帰順当初は戦々恐々としながら曹操の書記を務めていたが、やがてその言葉を書き連ねるうちに曹操に強く惹かれるようになり、またその関係から同じく文筆活動に精を出す曹植と仲良くなった。そして曹植が漢中アスレチック攻略の時に書いた課外活動日誌の内容に強く感銘を受けた陳琳は、ほかの「七本筆」共々強硬に願い出て合肥・濡須ライン攻防戦の最前線へ従軍。なんの位階もない一般部員として、彼女はその信じられない集中力で不思議にも毎回無傷で戦場の取材活動から帰還してのけたが、その最終盤で本人無傷のまま階級章を紛失、規定によりリタイアとなる。曹操はその有様に呆れながらも、以後も宣言通り卒業まで一般生徒枠の書記として重用し、曹操と同時に学園を卒業したという。
その頭は若白髪であり、幼い頃から書画に打ち込みすぎて何時の間にかそうなっていたと自称する。また、中等部まで同じ棟の文芸仲間であった一級上の張紘とは互いに尊敬し合う親友同士である。


-史実・演義等-

陳琳 ?~二一七
字は孔璋、広陵郡の人。
初め、後漢の大将軍であった何進に主簿(秘書的な立場に当たる役職)として仕えた。何進が宦官の撲滅を実行に移すため、全国の諸侯や豪族を呼び寄せようとすると、陳琳は「動乱を招く元になりかねない」と諌めたが、聞き入れられなかった。結局何進は十常侍に暗殺され、陳琳は冀州に落ち延びて難を逃れた。やがてその地で主権を握った袁紹に招かれ、文書作成を一手に任されるようになった。袁紹が様々な方面に送りつけた文書はほとんどが陳琳の手によるものであり、有名な官渡の戦いの檄文も彼によって起草されたものであった。
袁紹が世を去り、その子の袁尚が曹操の北伐によって滅ぼされそうになったとき、陳琳は降伏の使者として赴いたがそれが受け入れられることはなかった。結局陳琳も曹操に降伏することとなったが、曹操は陳琳の檄文の件に関して「貴様はわしの悪口ばかりでなく、よくも祖父や父まで引き合いに出してくれたな。悪を憎んでもその人の身だけに止めるべきであろう」と怒った。陳琳は謝罪したが、曹操は一方でその文才を非常に高く評価し、それ以上特に咎めることもなく、召抱えて文書作成を任せた。以後曹操が発令した軍事、国政問わず多くの文書は陳琳の手によって作成されたものであった。
陳琳は公文書の草稿が出来上がると、必ず曹操に差し出すことにしていた。曹操には偏頭痛の持病があり、度々その発作に悩まされることが多かったが、そうして頭痛に悩まされたある日、陳琳が草稿を提出してきたので横たわったままそれに目を通した。次の瞬間、曹操はすっと起き上がると「こいつはわしの頭痛を止めてしまったぞ」と喜んだという。このエピソードからも、陳琳の文章がそれほど優れていたということが伺える。
二一七年、兗州や豫州に疫病が大流行した際に、彼もまた病に倒れて帰らぬ人となった。
当時彼を含め、優れた文才を持ち、あるいは詩歌の才能を持つ七人の文人が居たが、後にそれは当時の年号を冠して「建安七士」と呼ばれることとなった。彼らは当時の文壇に新風を巻き起こした建安文学の担い手として後世に讃えられることとなったが、文帝・曹丕は「孔璋の文はとりわけ雄健であるが、少しく繁雑である」と評している。


-狐野郎が曰く-

何気に中国文学史上でも名を残すほどの文化人であり、 「蒼天航路」ではまず、袁紹の幕僚として曹操を檄文によってぶち切れさせるところで登場、後に宴会の席で曹植の才能に感動し孔融と対峙するシーンが陳琳最大の見せ場になるだろうか。この話で登場したのは曹植の「洛神の賦」という作品で、一説には兄嫁に抱いてしまった叶わぬ恋を詠ったといわれるこの傑作を孔融は「この場は君のようなものが幼い俗情を吐き出して良い場ではない」と一蹴しているのに対して、陳琳の第一声が「孔融殿ともあろうものが本当に聞こえぬのか。それともあえて聞こえぬふりをしておられるのか」と痛烈に批判する。その後は興に乗った曹操まで乱入して、その鼓に併せるかのように激論を交わし、曹操が解放させた様々な技芸の才が渦巻く中でなんかの衝動に突き動かされた劉協も踊り出して群臣が熱狂するという意味不明なパワーを感じるエピソードとなっているのだが…その後も曹植の軍記に焚きつけられて合肥の戦いに参戦して、病死の間際までほかの文人達と競うように筆を取っていたことが語られ、彼等の死を嘆いた曹植が酔った勢いで壁という壁に悲憤の詩を刻んでいたりとかとしてる。この作品の文人のパワーってなんか凄いけどよくわからんよな。
あと同郷の張紘が枕に使われた柘榴の木目に「なんかこれおもろいやん!」って書いた賦(柘榴の賦ってやつな)を「これおもろいで!うちの故郷の仲間が作ったねんで!!」って気に入って周囲に触れ回ったと言う話があるそうで。古いも新しいも伝統も革新もなく、イイモノはイイ!と主張できる文化人の鑑というべき人物と言えよう。
さて、狐野郎が陳琳を取り上げたのはぶっちゃけ「三国志大戦」が切欠で、誰も他に取り上げてなかったのでベースには「蒼天航路」のテイストを取り入れつつ、かといってデコ全開のデザインがしっくり来ないので、サイドテールにしてみたという感じである。とある萌え4コマの登場人物も少し参考にしているかな。最初は茶髪で考えてたけど白髪のほうがイメージできるので今回白髪で塗り直した次第である。