解説 郝昭


-学三設定-

諸葛亮の北伐に揺れる雍州・涼州校区に彗星の如く現れた名主将。
豪放磊落な性格と鉄石の如き蒼天会への忠誠心、そして東郷示現流の剛剣を揮い凄まじい統率力を持って、陳倉ラインから攻め上がる帰宅部連合軍に対峙。諸葛亮は相手を少人数と侮って威圧したり友誼に訴えたりあの手この手で降伏を促すも、この少女は強硬に反抗。業を煮やした諸葛亮は、明らかに無茶振りとも言える剣道の試合を申し込んだら郝昭一人に四人までもが蹴散らされ大将の魏延とは引き分ける始末。そして実際に攻め寄せると、陳倉のバリケードは地の利を活かしていることと、先の剣道試合での郝昭の剛勇に守備軍は奮い立ってアホみたいな士気の高さで郝昭の指示に従いテキパキと防衛行動を行い、陳倉防衛ラインは準備を整えた曹真の応援軍が到着するまで持ちこたえてしまった。これで諸葛亮の北伐を空振りに終わらせた功績が認められ、更に権限のある主将に任命される段になって、郝昭はそれを辞退。しかも階級章まで返上し、自分の武を磨く武者修行に出ると言い残して学園を去ってしまった。彼女の意思は硬く、説得が出来ないことを諦めた曹叡達はその旅立ちを承認するしかなかったという。郝伯道の名は、この一戦のみの成果をもって曹氏蒼天会における伝説となったのだ。


-史実・演義等-

郝昭 生没年未詳
字は伯道、太原郡の人。
勇敢な性格と力強さを併せ持ち、若くして軍役について活躍し、やがて雑号将軍にまで出世した。河西一帯を十数年にわたって治め、民衆も異民族も畏れて服従した。
二二八年頃、明帝・曹叡は諸葛亮の北伐に対抗するために陳倉に城を築かせたが、郝昭がその守将として陳倉城に入って間もなくの二二八年一二月、諸葛亮は数万の兵を率いてこの地より北伐を開始し、郝昭はそれを僅か千余りの兵で迎撃することとなった。諸葛亮は自分が城兵の数十倍の軍勢を率いていることを恃みとし、先ずは郝昭と同郷かつ旧知である靳詳を送り込んで降伏勧告をしたが、郝昭は物見櫓の上から靳詳へ「わしの性格は貴様も良く知っているだろう。わしは魏王朝より多大な恩顧をいただいておる者であり、ただ死を賭して戦うまでだ。さっさと諸葛亮に攻めてくるように伝えろ!」と怒鳴った。諸葛亮は再度靳詳を説得に差し向けたが、郝昭は「わしが君を知っていても、わしの射る矢は君を知らんぞ!」と言った事で諸葛亮はようやく説得は無駄だということを悟り、自分の軍勢が城兵の十倍以上であること、行軍ルートの険阻さから魏の援軍が来るまでに十分に攻め落とせると踏んで、大量の攻城兵器を用意して攻め寄せた。ところか郝昭はあの手この手の城攻めを片っ端から潰してまわり、とうとう二十日以上も蜀軍を陳倉の地に釘付けにしてしまった。そうこうしているうちに曹真率いる魏の本隊が到着したため、結局諸葛亮は侵攻をあきらめて撤退した。
郝昭の戦いぶりを聞いた曹叡は非常に喜び、召し返して列侯に封じた。曹叡は彼をもっと重く用いたいと思っていたが、間もなく郝昭は病死してしまった(前後の記事から類推するに、二二九年から二三〇年の頃に死んだと思われる)。郝昭は死の間際、息子の郝凱に「生きている人間にだけ居場所があるのだ。死者の居場所など何処にあるというのか。わしの亡骸はこの官服のまま埋葬し、ここは先祖代々の墓地とも離れているが、何処にどうやって埋めるかはお前の好きなようにするがいい」と遺言したという。
ちなみに演義でも正史でもその行動も活躍ぶりもほぼ同じで、演義では彼が病死したのに乗じた諸葛亮が腹いせのように陳倉を速攻で攻め落とし、なおかつ堅牢な城塞も跡形なく破壊してしまった。諸葛亮らしからぬ、何処か大人げない行動である。


-狐野郎が曰く-

正史でも演義でも、ここまで活躍振りに差の無い人物というのも実際珍しい。まして彼は敵役である魏の名将である。実際は少なくとも曹操の時代から魏に仕えていたことが窺えるが、惜しむらくはそれまでに活躍らしい活躍がなかったためか、立伝されるほど業績がはっきりしているわけではないことだろう。とはいえ、彼の一世一代の大活躍はしっかりと歴史に残り、しかも演義においてすら「諸葛亮を苦しめた男」としてしっかりインパクトを残していった。彼はそこですべての力を使い果たしてしまったかのように間もなく世を去ってしまうが、曹叡ならずともこんな一瞬の線香花火の如く消えていってしまったことを惜しむべき人物だったと言えよう。もっと長生きしていれば、陳泰や郭淮にも匹敵する名将として名を残していたかも知れない。
最近歴史解説動画も多くなってきたが、実はこの陳倉道の攻防戦に関する謎も結構多く、これについて取り上げられている方もいた。実は演義でも正史でも「諸葛亮が陳倉から攻めてくる」事に関してはある程度予測されていた(演義では司馬懿が、正史では曹真がの違いはあるが)にもかかわらず、何故陳倉城にたった千名余りしか居なかったのか、挙句こちらは正史の話だが、陳倉道には陳倉城の手前に「散関」という要害があり、諸葛亮はなんとここをほぼ無傷で突破している(というより戦闘もなく完全にスルーできていたらしい)という、魏軍にとってはセプク案件どころじゃない大失態が発生しているのだ。結局郝昭のファインプレーどころじゃないレベルの大殊勲で諸葛亮の進撃は頓挫させられているんだが、結果論とはいえじゃあなんですぐに兵は送れなかったのか、これに関しては陳倉の戦いで検索すれば解説動画が見つかると思うので御覧頂ければと思う。当時魏も結構危ない状態だったこと(陳倉にすぐ対応できないぐらいの)がおわかり頂けると思う。

さて学三の話だが、実は陳倉以外に活躍の場もない郝昭を取り上げたのも、ブログに寄せられたあるコメントからだった。確かに本家でも触れられていなかったし、狐野郎自身も実は結構好きな人物だったので、イメージを形にしたら一番しっくり来たのがスパロボOGでお馴染みゼンガー親分。「少女版ゼンガー・ゾンボルト」というコンセプトでデザインしたのが大元で、今回のリニューアルに当たりそこに魂魄妖夢(東方Project)が混入する事案に。人斬り妖夢とゼンガー親分を悪魔合成した何かとかなんだそれ敵に回したらいっちゃん怖いやつだろ…。