解説 劉禅
-学三設定-
劉備の妹にして、劉備の遺した帰宅部連合の後継者……なのだが、本人はいたってほわわーんとした性格で、シャキシャキした姉と正反対のおっとり娘。劉氏蒼天生徒会の復権を目論む諸葛亮らの気合が空回りすること甚だしく、実際問題飛びぬけた才覚がないどころか、連合の運営も何処か他人事のように思っているような節がある。基本的には、みんな仲良く楽しくやってくれたらいいと思っているためであろう。空間に溶け入るような笑顔が凶悪なほどに可愛く、誰もが彼女を放っておけなくなるが、そのあたりは流石に劉備の妹といったところ。
連合総帥の後継者となったあとも、特別何かアクションを取ったことはなく、基本的には諸葛亮やその一派の好きなようにさせていた。本人は連合解体まで結局これといった業績など残しているわけでもなく、司馬晋生徒会に帰順した後も、司馬昭相手にボケ倒して呆れられているが、これを保身のための名芝居と評価する者がいるから世の中というヤツは解らない。劉禅が何を考えていたのか、知っているのは本人と劉備以外いないのではなかろうか。
どういうわけか趙雲に非常によく懐き、ずっと一緒だった。逆に諸葛亮が苦手。諸葛亮も生徒会の人たちと仲良くすればいいのになあ、と思っている。ある意味では諸葛亮の妙な「萌え」思想にカモフラージュされた、「狂信的な理想主義者」という一面を感じ取っていたのかも知れない。
-史実・演義等-
劉禅 二〇七~二七一
字は公嗣。幼名を阿斗といい、劉備が荊州で劉表の庇護下にあったときに生まれた子である。
劉禅は生まれて間もなく、まだ物心つかないときに劉備一党の大逃亡劇に巻き込まれ、あわやというところで趙雲に救われ、生き延びることが出来た。そうして当人も知らぬうちに九死に一生を得た劉禅は、劉備が漢中王となると、その王太子となった。劉備が帝位に就くと皇太子となり、劉備が夷陵における敗戦のショックから病を得て他界すると、劉禅はその後を継いで蜀皇帝に即位した。
劉禅は皇帝となったものの、その国政、外交問題、戦役などの指揮に関しては総て丞相の諸葛亮が取り仕切っていた。諸葛亮の死後も蒋琬ら優秀な官吏がしばらくの間国政を支え、それまでの間劉禅が積極的に政治に参加したかどうか後主伝には一切記述がない。二四六年に蒋琬が亡くなると、劉禅は自ら国事をみることになったと伝にはあるが、具体的に何をしたかは記されていない。やがて蒋琬の後任として大将軍になった費褘も暗殺され、宦官の黄皓が実権を握るようになると、蜀の国政は大きく傾いていくことになる。
二六三年、鐘会、鄧艾らを大将とする蜀討伐の大軍勢が攻め寄せてくると、姜維・張翼・廖化らは国都・成都への最終防衛地点である剣閣関に立て篭もってその軍を防いだ。しかし鄧艾は手薄な陰平方面の道なき道を踏破して一挙に成都に迫ったため、劉禅は光禄大夫譙周の意見を容れて文書を奉り、鄧艾に降伏した。このとき、劉禅の第五子にあたる北地王の劉諶は国の滅亡を悼み、劉禅に降伏を思い止まるように進言したが聞き入れられず、一家心中してしまった。文書を受け取って降伏を受諾した鄧艾の軍が成都城門に迫ると、劉禅は棺を従え、自らの体を縛り上げて軍門に出向いたが、鄧艾はすぐに棺を焼き捨てさせ、劉禅の縄目を解いてやったという。
その後鐘会のクーデター未遂や、それに伴って鄧艾も殺されたことでかなりの混乱があり、そのさなかでクーデターの謀主であった姜維を始め、元皇太子の劉濬なども混乱のうちに殺害される有様であった。それが収まると、劉禅は残った家族とともに洛陽に移され、魏朝廷から安楽公に封じられた。彼に付き従ってきた譙周、郤正、張紹(張飛の孫に当たる)、樊建らは皆列侯に封じられた。
劉禅が降伏した後の有名なエピソードがある。魏の実権を握っていた司馬昭は劉禅を招いて宴会を催した席でのこと、彼のために蜀の音楽が奏でられると、劉禅に従ってついてきた元の蜀臣たちは痛ましい思いにとらわれたが、劉禅は機嫌よく笑い平然としていた。この様子を見ていた司馬昭は「この有様では、諸葛亮が生きていても補佐などしきれるはずもないな」と呆れたという。
この話には続きがあり、後に劉禅と会見した司馬昭が「蜀の地を思い出しませんか?」と問うと、劉禅は「「いえ、ここは楽しいので、蜀のことは思い出しません」と答えた。この言葉を聞いた郤正は「もし同じ事を聞かれましたら何卒、先祖の墳墓が蜀の地にありますので、一日として思い出さない日はないとお答えください」と訴え、劉禅がそれに従ったところ、司馬昭は「郤正の言葉そのままですな」と皮肉った。しかし劉禅は「いや、仰るとおりです」と驚いた風に答えたため、言わせたものは皆笑ったという。
二七一年、洛陽にて逝去。諡を思とされ、また蜀の皇帝としては劉備の「先主」に対して「後主」と呼ばれた。
-狐野郎が曰く-
「三国志最大の昏君(バカ殿)」と言われることも多く、蜀漢を支えた人物が祀られる「武侯祠」にもいまだ祀られていない(恐らく今後も祀られることはないだろう)劉禅であるが、陳寿はその人物像について「それは染まりやすい白糸のようなものであった」と評価している。諸葛亮らの存命中はその意に従って道理に従う良き君主であり、彼らが世を去ってしまってからは宦官や佞臣に惑わされる暗君であった、ということだ。僭越ながら私めが愚考すればこの劉禅というお人、良くも悪しくも「よきにはからえ」君主だったのではなかろうか。
ただ興味深いのは安楽公に封じられてからのエピソード、この一件に関し、劉禅が保身のためあえて暗愚の風を装っていたのではないかという説を唱える人もいるらしい。実は劉禅は即位して間もない頃、彼自身の意志だったかどうかは定かではないとはいえ、曹丕が送りつけてきた降伏勧告の国書に堂々と反論して突っぱねたことがあったのだ。それが約四十年の年を経て結局魏の朝廷に屈することとなり、その庇護を受けている身で下手に望郷もしくは雪辱を晴らす意思を少しでも見せれば、あっという間に自身も一族の身も危うくなるだろう位はもしかしたら解っていたのではないか…それが、司馬昭と絡んだ例のシーンに対する見解とされることがある。仮にそうであれば、劉禅はあの海千山千の司馬昭をも見事騙しきった演技力の持ち主だった、ということになるわけで。とはいえ事実、これらのエピソードから現代においては「阿斗」は「愚か者」の代名詞として扱われるのみならず、「阿呆」の語源になったという説すらある。アホはアホでも、「アホの坂田」こと坂田俊夫師匠のように愛される存在とは言い難いのが悲しい。
さて、学三では劉備軍団がもっともにぎやかだった時代のマスコットとして描かれることも多い劉禅、ほぼ全時期を通して「阿斗ちゃん」の愛称で語られ、基本的にはやっぱりのほほんとして何も考えていない感じに描かれる。何しろ時代が何年も前なのでモチーフになるなどあり得ないが、ある意味「ウマ娘プリティーダービー」のハルウララと同系統のキャラかもしれない。もっとも、ウララと違ってこいつは一切何の努力もしねえんだけど。