解説 鐘離牧


-学三設定-

かつて「覇王」項羽の元で突撃隊長を務めた女丈夫・鐘離昧の遠縁に当たり、会稽地区ではそれと知られた名門鐘離家のお嬢さん。この家からは劉氏蒼天会の中興期にも魯の君に副官として辣腕を揮った鐘離意を輩出しているが、鐘離牧はその姪に当たる。
初等部から中等部に昇級するかしないかの頃、鐘離牧はあまりに荒れ果てた棟の花壇を一人で手入れしていたことがあった。春先になって花に彩られるようになった頃になって、クラスで花壇の係をしているという数人の少女達から「管理しているのは私達だから、勝手に花なんか植えるな」と修理代として現金を請求されたが、何一つ文句を言わず彼女は要求に従った。後にこのこと知った孫権はその不届きな少女達を呼びつけ、これまで職務放棄して花壇を荒れ放題にしていた挙句に鐘離牧から金品まで巻き上げたことを厳しく叱責して処罰に移ろうとした段になり、聞きつけた鐘離牧は任地から駆付けると「無断で花壇をいじくったのは私の非である」と主張して少女達を無罪放免にするよう嘆願した。このことで少女達は自分たちの行動を深く恥じ、彼女から巻き上げた金額と同等の金額を返還したいと申し出たが、彼女はやんわりと拒否して受け取らなかったという。結局、当時彼女の上役であった陸遜の提案でそれを元手にした食事会を開くことになり、少女達は鐘離牧の部下となって手脚の如く力を尽くすことを誓ったという。このことにより広く名が知られるようになった。
このエピソードで知られるように、どちらかと言えばおっとりとした気の良い少女であるが、従姉であった鐘離緒は常々鐘離牧を高く評価していた。当初はそれを信用するものはあまり居なかったが、交州で呂岱の後輩として組織運営や軍略を学んで、潘濬の後任として五𧮾高校の取り締まりに当たり、その優れた軍事的才幹と交渉術を遺憾なく発揮した。「二宮事変」や帰宅部連合の解体という混乱期において五𧮾・山越両校が不穏な動きを見せたときも、普段のおっとりした言動からはまるで想像もつかないような迅速果断さで瞬く間に鎮圧して見せ、やがて濡須総督を任されるまでになった。趙雲も揮ったという常山流長刀術の使い手であり、武の面においても当時の長湖部内では丁奉や朱績らの猛将に比肩するほどの技量を有しており、当時の五𧮾の番長も「鐘離の姉御」と呼んで一目置いて、五𧮾の荒くれたちから恐れられるとともに一方で隠れファンクラブが存在していたという。
彼女は丁奉や朱績が引退した頃に身を引き、後任となった妹の鐘離徇は最後の夷陵棟長として、この防衛ラインをともに守る虞忠とともに玉砕し長湖生徒会の最後に殉じている。


-史実・演義等-

鐘離牧 生没年未詳
字は子幹、会稽郡山陰の人。漢の時代に魯国の相であった鐘離意の七世の子孫とされ、その遠祖に「西楚の覇王」項羽配下の猛将鐘離昧をもつ。
彼が会稽郡永興県に住んでいた頃、荒地を開墾して稲を育てたが、実りの時期が来るとその土地の持ち主というものが現れ、その稲は自分の土地で育ったから自分のものだと主張した。鐘離牧は何の疑いもせずに収穫した稲を全てその人物に譲り渡したが、県の長官は言いがかりをつけたとしてその人物を処罰しようとした。その人物は鐘離牧の嘆願によって命を救われ、実りを横取りしようとしたことを恥じたその人物は稲を返還しようとしたが、鐘離牧は受け取らなかったという。この事件により、彼は広く名を知られるようになった。
二四二年、郎中であった彼は南海太守に任命され、同じ交州の合浦郡を荒らしまわっていた不服従民の平定に尽力した。時に苛烈な軍事を持って攻め滅ぼし、また時には巧く懐柔して不服従民を手懐ける鐘離牧の手腕に、始興太守の羊衟は太常の滕胤に「彼(鐘離牧)のことは今までよく知らなかったが、南海郡当地の手腕を見て、その知略や勇気、古人の風格を備えた立派な行いを持っていることが解った」と賞賛したという。南海郡で太守としての任務を務めて四年、にわかに病を得て中央に戻った鐘離牧は、やがて丞相長吏、ついで中書令と順調に出世していった。
二六三年、蜀滅亡により武陵郡五谿の異民族たちの間に動揺が起き、呉朝廷では反乱の兆しではないかと懸念された。鐘離牧は平魏将軍に任命されて武陵に赴いたが、魏からも武陵太守として郭純という者が送られ、郭純は五谿の異民族たちの酋長の元を訪ねて魏に味方するよう唆して回った。鐘離牧は「蜀も滅びて軍備も心ともない状況で軍を動かすのは不利」という慎重論を一蹴し、昼夜兼行で五谿の地に乗り込み、呉から離反した住民の頭目らをことごとく打ち滅ぼし、郭純の勢力を追い払ってこの地を平定した。この功績により鐘離牧は公安督・都郷侯に封じられ、やがて濡須督に転任、さらに前将軍として仮節を与えられるまでになった。
鐘離牧は在官のまま死去したが、家には財産の余剰は残っていなかったといい、士人や民衆達は彼の徳をしのんだ。


-狐野郎が曰く-

ポジション的には潘濬の後任者になるのだろうか。山越共々、荊州南部にいた五𧮾の不服住民も孫呉にとっては無視できない内患であったわけで、その平定に携わった中では最後期の人物になるだろうか。何気に鐘離一族っていうと有名なのは項羽に従って散々劉邦を苦しめた猛将鐘離昧がいるのだが、地味にあの一族も命脈を保っていたことには驚かされる。韓信が誅殺された裏にも鐘離昧が一枚噛んでたという話もあるし、劉邦のことだから鐘離一族を根絶やしにしていてもおかしくはなさそうではあるのだが。そのエピソードを見ると、全琮と似たようなことをしているので成程同じ列伝に置かれるのもまあ解らなくもないなと言ったところだが…個人的にはあまり同列において欲しくない気がしなくもないんだよねえ。全琮と言えば二宮の変でもやらかしてるし、その子孫に至っては魏に寝返り打ってるしどっちかと言えば諸葛恪とかと同類なのでは…という。まあここは鐘離牧の項目なので関係の無いところではあるな。あとセガ、貴様等が三国志大戦で「字:なし」とか巫山戯た解説書いてたことだけはマジで未来永劫許さんからな(
さて、鐘離牧については本家にもデザインが存在しているんだけど、今思えば何故虞翻や丁奉にデザインが存在してなくて鐘離牧にあったのかよくわからぬところである。そんなど派手な活躍してるわけでもないのに、まして誰かが話書いてるわけでもなかったのにな。髪型的には地毛だったのかそれとも修道女のケープ被ってるのかよくわからん感じだったのだが、緑髪であの髪型なのでひょっとすると「涼宮ハルヒの憂鬱」の鶴谷さんが元ネタだったのだろうか? 今回リファインするにあたって微妙に髪型を変えているがほぼ元デザイン通りにはなってる…と思う。