解説 吾彦
-学三設定-
長湖部の母体であり、その総領娘の親衛隊という位置づけにあった長湖水泳部最後の副部長。陸遜や顧雍といった多くの名臣を輩出した蘇州地区の一般家庭に生まれ育ったが、中等部に上がる頃には180cmを超える背丈と剛力無双のスポーツ少女として有名で、あるときには近所の猛犬が放し飼いの状態になって下級生に襲いかかったとき、果敢にも自分の背丈と変わらない体躯の興奮した猛犬を事も無げに組み伏せたことで「蘇州の犬伏せ」と渾名された。なおその家の主人はこの一件により動物愛護法違反を初めとした多くの余罪が発覚し、程なくして逃げるようにこの地を去ったという。
スポーツ少女らしいさっぱりとした熱血少女で、飛び抜けた運動神経を持つに至った。その天賦の資質を最大限に発揮するべく特に水泳に熱心に打ち込んだが、それは幼い頃に出会った孫策や凌統、あるいは後に師事することとなる丁奉に憧れており、中等部に入って水泳部を目指すも、「犬伏せ」の勇名故にすぐにその門戸を叩くことは出来ず、しばらくは蒼天会の剣道部豫州校区支部に半ば強引に引き入れられていた。彼女は中等部卒業に際して「先輩方から五連続で一本とったら自由にする、そうでなければそのまま蒼天会の剣道部に属する」という条件で試合を行い、見事自由を勝ち取って堂々と長湖水泳部の入部テストに臨むと、その非凡な才覚を部長代理である留平や沈瑩に認められ、また興味半分で立ち会っていた陸抗の知遇を得ることとなった。憧れの存在であった丁奉からも、短い間ではあったが直々に泳法とゲリラ戦術のレクチャーを受けることも出来、めきめきとその実力を高めていた彼女は建平棟長として一軍を任された。
彼女は棟長となって間もなく、益州校区までを繋ぐクリークの上流から木片が流れ着くことから、司馬晋生徒会が大々的な攻勢を仕掛けようとしていることを察知する。彼女はその異変を報告するもそれは当然ながら孫皓の元に届くことはなく、彼女は軍団とともに最後までこの棟を守り抜く覚悟を決めると、独自にバリケードを築くなど対抗の構えを見せる。間もなく「三征」の一角であった王昶の妹・王渾率いる大攻勢を僅か百名足らずの守備軍で迎え撃つ。百倍近い物量の相手にも吾彦と建平守備隊の面々は、丁奉直伝のゲリラ戦術で粘り強く抵抗し、長湖生徒会の本営が降伏するまで建平棟を守り抜いてしまった。彼女は本営の降伏を受け入れて自らも投降したが、司馬炎は王渾を散々に苦しめた吾彦とその軍団を高く評価して、執行部員に抜擢した。
帰順の後、司馬炎が戯れに「長湖生徒会が解体したのは何故だろう?」と吾彦や薛瑩に質問したことがあったが、孫皓の暴政に原因があるという当たり障りのない回答をした薛瑩に対して、吾彦は「これはそういう運命であったから仕方ないことで、部長孫皓も元来聡明な女性であり、群臣も優れた人物ばかりであった」と反論したという。その時、居合わせた張華が「あなたは主将として長いみたいなわりに、名前聞いたこともないけど?」とからかうと、吾彦は語調を荒げ「会長(司馬炎)さえあたしのことをご存知だったのに、あんたほどの人があたしのことを知らないなんてな!」と言い放ったという。このやり取りから、司馬炎や張華に一目置かれるようになったという。
彼女は司馬晋生徒会において血なまぐさい中央の政争に関わることなく、願い出て地方官僚を歴任して方々で高い治績をあげ、交州学区総代陶璜が引退するとその後任として交州学区総代となった。そこで一年以上総代の任を勤め上げ、同地の安寧を保つことに尽力、卒業間際になって再び中央に戻ったが、彼女はそれに際し、甘寧、丁奉から自身に受け継がれてきた大木刀「覇海」を手放していた。彼女は「長湖の武」の証であったこの剣を長湖に沈めてしまったとも、元の持ち主の縁者であった甘卓に押し付けたとも、あるいは彼女が秘匿してしまったとも言われるが定かではない。
また、あるとき司馬炎との談話の中で陸抗の話に及んだ時、彼女はありのまま思ったとおりの陸抗像を語り、変に持ち上げたりしなかった。そのことを人伝に聞き、曲解した陸機・陸雲姉妹の逆恨みを買うという一幕もあった。
-史実・演義等-
吾彦 生没年未詳
字は士則、呉郡呉の人。貧しい下流階級の出自であるが、文武ともに優れた才覚を有しており、身長は八尺(約190センチ)、素手で猛獣を捻り倒すほどの強力の持ち主であったという。
吾彦は呉の大司馬であった陸抗にその武勇と胆力を認められ、将軍として抜擢された。陸抗は始め、吾彦の家柄が卑賤であったことで、急に抜擢すると周囲の納得が得られないことを懸念し、宴席である人に気が狂った振りをして吾彦を襲うように指示した。その人物が命令通り、縁もたけなわとなったころに暴れだすと、座にいた者たちは皆恐慌を来して逃げ惑ったが、吾彦は動揺することなく机を掲げてその人物を押し止めてしまったという。こうして人々も吾彦の勇気と胆力を認めたという。
やがて建平太守に任命されたが、当時晋の益州刺史王濬は来たるべき孫呉との決戦に備えて大量の軍船を建造しており、その作業工程から出た木屑が長江を伝って建平郡まで流れ着いてきた。吾彦は晋の大攻勢が始まることを察知し、上奏して国境線の守備人員強化を訴えたが聞き入れられず、彼はすぐさま鉄製の鎖で進路妨害のバリケードを方々に作り始めた。二八〇年に晋の大侵攻が開始されると、他の郡県では守備の軍勢も蹴散らされたり、半ばで降伏したりと晋軍を止めることが出来なかったが、こうした備えを施していた建平郡は、孫皓が降伏するまで堅守し、陥落させられなかったという。晋軍は吾彦のこうした戦いぶりに敬意を表し、兵を一舎(舎は兵が一日に行軍する距離。時代や兵種にもよるがこの場合は三十里)引いたという。呉の滅亡とともに吾彦はようやく降伏、武帝司馬炎は吾彦を取り立て、金城太守に任命した。
あるとき司馬炎は戯れに、群臣に対して「呉は何故滅びたのだろうな?」と問うと、もと呉の光禄大夫であった薛瑩(薛綜の次男)は「帰命侯(孫皓)殿はむやみに残酷な刑罰を行い、人心を失っていたのが原因です」と答えた。後日司馬炎が同じ質問を吾彦にすると「呉主は英俊であられ、宰相も賢明でございました」と答えたので、司馬炎は笑って「君臣ともに優れた国が何故滅ぶのだ?」と重ねて問うと、「天の命数というものには限りがあります。人知の及ぶところではありません!」と答えたという。このときたまたま同席していた張華が「あなたは呉の将として長いそうだが、その評判もトンと聞かなかったが」と(おそらくはからかい半分に)言うと、吾彦は語調を荒げ「陛下(司馬炎)ですら私めをご存知であったというのに、あなたほどの人がご存じないと!?」と返した。司馬炎はこうした吾彦の受け答えにいたく感心した。
その後は敦煌太守、また雁門太守と北方の国境線にある重要地区の太守を歴任し、その地における恩恵と威信は甚だしいものであった。やがて交州刺史陶璜の後任として交州刺史となり、それから二十年あまり南方の安寧のために尽力した。吾彦はやがて中央に召還され大長秋になり、在職のまま世を去った。正確な没年はわからないが、伝の記事から恐らくは三一〇年ごろに亡くなったと考えられる。
吾彦は世話になった陸抗の子である陸機・陸雲の兄弟に難度か贈り物をしたが、ふたりは卑賤の出自でありながら陸抗に取り立てられたはずの吾彦が、あるとき司馬炎の問いに対して陸抗を賞賛しなかったことを恨んで受け取ろうとせず、かえって吾彦の悪口を言うようになった。しかしある人が兄弟に向かって「古来より卑賤の出で王侯貴族に出世した人はごまんと居り、それを誹謗する人はいませんでした。士則殿がご下問に対してあなた方の父君を褒めなかった程度で、あなた方は彼の悪口を言っている。そんな態度を取っていれば、何時かあなた方が南方の士人に愛想をつかされてしまうのではないかと心配です」と諌め、兄弟もようやく非を認めたという。
-狐野郎が曰く-
狐野郎は陸抗の項で孫呉最後の名将と書いたな…ククク、ありゃ嘘dあっごめん石投げないで(
呉から晋に移って活躍した人も実はかなり居て、例えば陸遜の孫に当たる陸機・陸雲兄弟、虞翻の子である虞聳・虞昞兄弟と孫に当たる虞譚、周魴の子周處等々…二世以降の人物を挙げてもこれだけ上がってくるが、吾彦はその中でも寒門出の叩き上げという経歴の持ち主である。むしろ三国志の時代というよりもむしろ晋の時代の人といっても良いような気がしなくもないが、間違いなくその中でもトップクラスの名将・名地方官とであると言えよう。そもそも伝も、今だ翻訳される気配のない晋書のなかにあるため、三国志内では僅かに孫皓伝、陸抗伝に名前が散見される程度でしかない。一応裴松之も注釈として簡単な略歴を紹介してくれているが、晋書は唐代に編纂され、どうも内容が結構杜撰だというらしいので何処まで信用できるのやら…とはいえ、この記述どおりだとすれば吾彦は名将であり、人物としてもなかなかの好人物であったようだ。真面目すぎて陸抗をべた褒めしなかったことを陸機・陸雲兄弟に嫌われてたりしたようだが、アレは吾彦が全部悪いわけじゃない、というよりこの兄弟がぶっちゃけ何処に陸遜の血を引いてたんだレベルでいろいろやらかしているんだけども。
吾彦のデザインも陸抗ともどもオフィシャルではないものの、狐野郎の仕業ではなく別の方が寄稿したものが元。その作者様曰く「(吾彦は)とにかく何でもかんでもでかい」とのことらしいので、伝の記述どおりなら身長も190は余裕であるって事になるんだろうねえ。これでそれなりにスタイルも抜群だったらモデルとしてやってけそうだが、タッパでかいってスイマーとしてはどうなんだろうねえ。