解説 羊祜


-学三設定-

「清流会」に属する青州学区の名門羊一族の少女。羊氏は血縁の上で夏侯氏や司馬一族ともつながりが深かったが、特に司馬一族とは彼女の叔母に当たる人物が司馬師・司馬昭姉妹の実の母(司馬懿の継母に当たる)という関係にあった。
こうした血縁関係のために羊祜も早期から蒼天生徒会の幹部候補として抜擢されたが、羊祜自身が執政者としても軍総司令官としても非常に高い資質の持ち主であり、遠縁の夏侯威や司馬懿などにその才覚を愛されていた。特に夏侯威の入れ込みはかなりのもので、その関係から姉の夏侯覇とも誕生日にプレゼントを贈り合う関係になった。夏侯覇は後に生徒会執行部のごたごたが元で帰宅部連合へ去ったが、夏侯覇と懇意にしていた者までこぞって彼女を非難したのに対し、羊祜のみは夏侯覇の心痛を慮り、彼女からもらったプレゼントを以後も大切にしたという。ただしこうしたことが、羊祜の才能を妬む鐘会に論われて執行部を追われ、鐘会の失脚とともに再度執行部に招かれるも、当時執行部を牛耳っていた賈充と関わり合いになりたくなかったので、願い出て荊州校区総代に就任して荊州校区へ向かった。
そこで、初等部に居た頃クラスメイトで大親友だった陸抗と再会し、なおかつ敵同士として鎬を削ることになる。ところが西陵棟長歩闡の反乱に乗じて直接対決することになった段で、陸抗の将器が自分より遥かに上であることを思い知らされた羊祜は、荊州校区の環境作りに力を入れて、長湖部サイドの一般生徒が帰順しやすい環境を整える戦略にシフト。それを察知した陸抗も同じように校区の環境作りに乗り出したことで、荊州校区では蒼天会・長湖部の別なく一般生徒達の交流が盛んになった。当人同士もプライベートではよく一緒になって出かけることも多くなったが、課外活動の件においてはお互いに妥協をすることはなかったという。
やがて陸抗が卒業間際になって病に倒れたとき、陸抗へ薬を送るも彼女の回復が望めず、無念のドクターストップがかかったことを知った羊祜は容赦なく「長湖部掃討の好機である」と請願書を出したが、賈充らの横槍を受けて退けられる。羊祜は親友の不幸に乗じることも厭わず掴んだ千載一遇のチャンスを逃したと嘆き、そのことに悔いを残したまま卒業してしまった。彼女の無念は、その後釜に座った杜預によって晴らされ、学園統一がなった席で司馬炎は「これは皆、羊さんのお陰だよ」とコメントを残したという。
羊祜が学園を去るに当たり、彼女を慕う後輩達が彼女の日常を映した数々の写真を掲示し、それを彼女の業績の一覧とともに襄陽棟の講堂に飾ったが、生徒達はその写真と文を見るたび、羊祜との思い出を偲んで涙せぬものはなかったという。また、一見大人しそうな感じだがかなりの行動派で、単独でも平気で長湖部の勢力範囲内に堂々と出歩いて部下にたしなめられるという一面もあったという。


-史実・演義等-

羊祜 二二一~二七八
字は叔子、泰山郡平陽県の人。青州羊氏は名門として知られ、彼の姉である羊徽瑜は司馬師の後妻にあたり、彼の妻も夏侯淵の次男夏侯覇の娘と、司馬氏と夏侯氏に縁が深かった。こうした血縁もあってか羊祜も早いうちから取り立てられることとなったが、彼自身文武に優れた才覚を有しており、一説によれば彼の婚姻に関しても、青年時代の羊祜の器量に惚れた夏侯威が強いて夏侯覇の娘を嫁がせたともいう。曹爽一派や夏侯玄がクーデターで失脚、処刑されると身の危険を感じた夏侯覇は蜀へ出奔したが、これを受けて親族はみな夏侯覇を絶縁する意思を示したが、羊祜だけは岳父夏侯覇の身を案じ、憔悴する妻を慰めたという。曹爽が権勢を振るっていた時、やがて失策を犯すだろうと予想していた羊祜に曹爽への仕官を勧めた王沈は、連座されて罰せられた際「羊君の見立てが正しかったな」ともらしたという。
司馬昭が大将軍となると、羊祜は中書侍郎・給事中・黄門郎として中央の政治に関ることとなった。当時の魏帝曹髦は文藝を好んでおり、羊祜も多数の詩賦を献じたが、それは群臣の不興を買うものであり遠ざけられるようになった。その曹髦が司馬昭を誅殺しようとしてあべこべに攻め殺されると、羊祜は秘書監に任じられ関中侯の爵位を受けたが、今度は司馬昭の寵臣であった鐘会に疎まれて遠ざけられてしまう。その鐘会がクーデター未遂で殺害されると、ようやく中央に戻され、国家の枢軸に関ることとなった。晋が成立し、賈充らが権勢を振るいだすと、羊祜は勤めて控えめな態度を取り、彼らとの衝突を防いだ。
司馬炎は羊祜を都督荊州諸軍事に任命し、赴任した羊祜は人民を労わり、降伏者に対しても寛大な態度で臨んだため、大いに荊州の人心を得た。開墾を奨励して十年分とも言われる余剰食糧を確保し、軍略においても度々国境を脅かす呉の石城太守を策略によって罷免させるなど余念がなかった。やがて車騎将軍まで昇進するが、羊祜は司令官という立場でありながら、鎧を身につけず軽装で出歩くのを好んだ。このため「閣下の身の安否は、国家の安否でもあるのです。軽々しい行動はお慎み下さい」と諫める人がいて、それ以後、こうした行動を控えるようになった。
二七二年、呉の西陵督であった歩闡が、任地を離れるのを嫌がって西陵城ともども降伏してくると、羊祜は荊州刺史の楊肇らを率いてそれを支援するべく軍を発した。しかし呉の荊州刺史であった陸抗が吾彦らを率いて歩闡討伐に出向き、その巧みな駆け引きによって羊祜は完全に進軍を阻まれ敗北するが、この責任を取って羊祜は自ら願い出て位を平南将軍に降格された。以後も荊州統治は引き続き彼に一任され、陸抗と直接戦っても敵わないと考えた羊祜はいたずらに国境線を犯すことを慎み、法規を遵守して徳治政治を行い、降伏者を受け入れやすい環境を整えた。また、呉から攻め寄せた軍勢を退けるため、あえて斬った将の遺体を丁重に送り返すなど礼に適った行動を取り、そのため呉の人々からも「羊公」の尊称で呼ばれるようになった。陸抗も羊祜の人物・将器を高く評価し、ふたりは敵対関係にありながら友誼を結んでいたという。羊祜は陸抗が病に倒れたと聞けば薬を送り、陸抗は周囲の諌止を退けそれを服用し、陸抗から返礼として酒が届けられると、羊祜もやはり周囲の諌止を聞かずその酒をありがたく戴いたという塩梅であったが、しかし互いに立場を弁え情誼に溺れて手心を加えることはなく、羊祜は陸抗が病死するとすかさず「今こそ呉を打ち滅ぼす好機である」と上奏した。ところがこの上奏は、慎重派であった賈充の反対にあって、閣議で否決されてしまった。悲嘆した羊祜は「人生とは思うままにならぬものだ。今をおいて、いつ事を実行するというのだ!」と言ったという。
間もなく病にかかった羊祜は、死期を悟って後任に杜預を推薦し一線から身を引き、二七八年に五十八歳で病死した。羊祜が亡くなった日はとても寒さが厳しく、羊祜を慕うものたちは皆涙に暮れ、哭する人々の涙が氷となって頭髪に散ったほどだった。呉の国境地帯を守る将兵も、生前の羊祜の徳を慕って涙せぬものはなかったともいう。襄陽の人々はその遺徳をしのんで「羊公碑」という碑を建立したが、その銘文を読めば誰もが生前の羊祜を偲んで涙を流したと言われ、そのことから「堕涙碑」と呼ばれるようになったという。後に詩聖・李白や孟浩然らがこの碑について詩文を残しており、「堕涙碑」は唐代も名物として残っていたことが窺える。


-狐野郎が曰く-

三国志演義のラストを飾るエピソードの一方の主役となった羊祜。陸抗とは良きライバル関係だったらしく、互いにその能力を認め合ったからこそ、深い友情で結ばれていたのだろう。流石にコブシで語り合う関係だったわけではないが、意外とこういうのって意外にこの時代では珍しいことではない気がしなくもない。実は演義だとこのことが元で陸抗は左遷されてしまうのだが、いくら演義とはいえどもあの孫皓がそれだけで済ませたというのもなかなか驚くべき話である。史実では実際そんなことはなかったようで、陸抗は死ぬまで任地で羊祜と友誼を深めつつ、その動向に睨みを利かせていたらしいが、それでもお互いに酒や薬を送り合って疑いもせずそれを飲むとかいろんな意味でいい度胸してるよな。ちなみにそれは一応史実であるようだからこれもわっかんねえな。
それはさておき、羊祜のデザインは2003年のお年玉企画で発表されたらしいとか何とか。この年の干支は未年だから「羊」祜と言うことなんだろうけど、確か前年度あたりが令狐愚だったんだよな。狐年なんてありませんよね?おかしいと思いませんか、あなた?( ちなみに狐野郎が孫皓排斥計画を書いたときには羊祜が軽装で出歩くクセがある事を知らずに、丸腰でそこいら中を歩き回っていることにしたのだがから何か降りていたのかも知れない(そんな馬鹿な