解説 杜預
-学三設定-
司隷特別校区に籍を置く名門杜一族の出身で、曹操をして「学園の名官吏」と称された杜畿の従姉妹。
彼女の姉・杜恕も優れた人物で、蒼天生徒会運営にも要職にあって辣腕を振るったが、融通の利かない性格から疎まれ放逐されることとなった。そのため杜預もうだつの上がらないいち生徒として中等部時代を過ごすことになるも、彼女の類稀な資質を知っていた司馬懿が実権を掌握すると幹部候補生として迎えられた。
やがて指揮官として頭角を現した彼女は、羊祜の推薦を受けその後任に就いた。杜預は羊祜の遺志を継ぎ、二ヶ月に及ぶ綿密な調査の上で長湖部打倒の軍を発する上奏を行うと、賈充の掣肘を退け司馬炎にその英断を下させることに成功する。杜預の率いる軍の速さと強さは凄まじいもので、夷陵方面から侵攻を開始すると瞬く間に江陵・柴桑防衛ラインを突破し、後に「光速の姫将軍」とあだ名されることとなった。長湖生徒会本営への攻撃に取り掛かる段になり、またしても賈充らの横槍が入るも、彼女は会議の席で熱弁を振るって侵攻作戦続行の勅命を引き出させ、最終的には王濬が長湖部本部を陥落させて湖南の学区を制圧することとなった。
統一された学園の平定を見届けると、彼女は生徒会運営への参画に興味を示さずひっそりと引退、以後は趣味であった歴史研究に没頭した。彼女は長じて学園大学部の歴史学教授に就任したが、博士課程にいる間に編纂した学園古史を書籍として出版して多方面から高い評価を受けており、最早趣味の領分では済まされないほどの「歴史マニア」であったことが窺える。
また、「光速の姫将軍」というあだ名からは到底想像も出来ないことであったが、杜預は筋金入りの運動音痴で、プールに入れば確実に溺れ、自転車にすら補助輪なしではろくに乗れず、極め付けに何もない平坦な道でも、走ろうとすれば足をもつれさせてすっ転ぶという有様であった。その分性格は温厚で思慮深く、相手の立場に関わらず決しておざなりに扱わなかったことから、彼女の周囲には常に人が絶えなかったという。さらに彼女は個人的に鄧艾を尊敬しており、衛瓘らが鐘会のクーデターに紛れて鄧艾を飛ばさせたという話を聴くと、公的な席で大々的に衛瓘を非難したというエピソードがある。
余談になるが、後に学園の詩聖として謳われる杜甫は彼女の娘である。
-史実・演義等-
杜預 二二二~二八四
字は元凱、京兆(長安周辺の特別政令地区)杜陵県の人。魏の名臣杜畿の孫に当たる。
杜預は知略に優れた資質を持っており、司馬懿に気に入られてその娘婿として迎えられたが、父の杜恕が剛直かつ気ままな性格だったために弾劾されて官職を追われ、親子揃って平民に落とされてしまった。杜恕は二五二年に亡くなったが、五年後に河東の楽詳という人が上書して、杜畿の残した業績を述べて杜恕を弁護し、それが認められたため杜預は豊楽亭侯に封じられた。
二六三年、蜀の侵攻作戦には鐘会の配下として従軍して戦功をあげた。蜀平定直後の姜維・鐘会のクーデターにも、衛瓘による鄧艾暗殺にもまったく関与せず、そればかりか杜預は鄧艾を非常に尊敬しており、衛瓘が田続に鄧艾殺害を命じた際、田続が鄧艾に処刑されかけたことで深い恨みを抱いていることを知った衛瓘が「今こそその恨みを雪ぐがいい」と言ったことを知った杜預は「小人が君子の皮を被っている程度の人間は、いずれ人の恨みを買って殺されてしまうのだろうな!」と、衛瓘を公的な場で激しく非難した。衛瓘はこれを聞いて非常に驚き、車の支度もそこそこに杜預の元に駆けつけ陳謝したという。なお衛瓘は位こそ晋の司空にまでなったが、杜預が予言したように晋朝廷内の政争に巻き込まれる形で誅殺されている。
晋が成立すると鎮南将軍となり、やがて羊祜の病気が重くなると、羊祜直々の推薦により都督荊州諸軍事の後任に就くと、二八〇年の呉攻略では荊州方面からの軍団の総司令官として侵攻。このときの杜預軍の進攻の勢いは、孫皓の暴政によって戦意も戦力も衰えていた呉軍相手だったことを差し引いても凄まじいもので、杜預の軍と相対した呉将孫歆は手紙で「まるで晋軍は長江を飛んで渡ってきたかのようだ」と述べたほどであったという。呉をもうあと一息で平定しようかというときになり、晋の中枢部では「夏の盛りの暑さで兵の士気が落ちるのを避けるべき」という口実で一時停戦をするべきという意見が出て、議論が起こった。
そもそも武帝司馬炎の寵臣であった賈充らは、どういう理由からか呉を攻略することに消極的な見解を示しており、羊祜が存命中に呉討伐を上奏したときは退けられており、杜預や彼の考えを支持する張華らの意見の後押しがあって、ようやく実行に至ったわけだが、またしても賈充らが掣肘しようとしてきたわけである。しかし杜預は反対派に対して「いま我が軍の威勢は大いに振るい、その勢いは竹を裂くか如しだ。我が軍の侵攻を受ければ、このまま呉を平定することも十分に可能だ」と主張し、結局その意見が通って侵攻作戦は続行された。間もなく長江を攻め下ってきた益州刺史王濬の軍が呉の首都建業を制圧し、呉は平定されることとなった。なお、このとき杜預が主張した言葉は、その杜預軍の攻めの凄まじさもあって、後に「破竹の勢い」という故事成語になった。呉討伐戦後、征南大将軍にまで出世し、爵位も当陽侯に封ぜられ、封地は八千戸にもなった。
優れた軍事的才幹の持ち主であった杜預だが、実は彼自身は弓術をはじめとした武芸の類はからっきしで、挙句に乗馬すらろくに出来ないという「武将」というには程遠い存在であった。それが大軍の総司令官を任されたのは、司馬懿や羊祜といった名将たちに認められた知略もさることながら、礼節も弁え、物事の受け答えも投げやりにしないなど人格的にも優れていたことが大きいという。歴史通としても有名で、当時学者達の間で様々な解釈を加えられて内容が混乱していた状態にあった「春秋左氏伝」を「春秋左氏経伝集解」というひとつの書物にまとめ上げている。あるとき杜預は王済と和矯という人物について「王済には馬癖があり、和矯には銭癖がある」といったことがあった。「○○癖」とは現在風に言えば「○○マニア」という意味合いであり、それを聞いた司馬炎が杜預に「では君には何の癖があるのだ?」と問うと、杜預は「私には左伝癖があります」と答えたという。「春秋左氏伝」は当時の中心的な歴史書であり、いうなれば杜預は「歴史マニア」といえる。
二八四年に六十三歳で死去し、その爵位は子の杜錫が継いだ。杜預の一族はその後も繁栄し、唐代には詩聖・杜甫を輩出している。
-狐野郎が曰く-
運動音痴で歴史マニアの名将杜預。「破竹の勢い」という有名な故事成語の大元になった人なのに、武芸のほうはからっきしというのもちょっと意外なところである。一説には演義の諸葛亮みたいな手押し車に乗って指揮していたとも言われている。まぁ名将と呼ばれる人種は自ら先陣きって敵を打ち破るような者ばかりではないし、きちんと統率された大軍勢を指揮するような戦になれば個人の武勇よりも指揮する将軍の手腕に左右されるのも当然の事であろう。裏返せば馬に乗れずとも困らない(勝てるからアワくって逃げる必要が無かった)程に戦上手であったということかも知れないし、半死半生の呉軍相手である事を差し引いても杜預がバケモノじみた存在である事には変わらないだろう。
「左伝癖」というのも杜預を語る上では欠かせないフレーズだが、この人がただの「左伝マニア」で終わらなかったのは、当時学者の間で解釈の違いから統一的なものが存在せず混乱状態だった「春秋左氏伝」を一本に纏めて、それが後世に伝わっていることに尽きよう。司馬遷の「史記」や陳寿の「三国志」程でなくとも十分にぶっ飛んだ業績であり、趣味が高じて「マニア」の域を超越してしまってるともいえる。まあ曹操も似たようなことやってるんだけども。
学三ではそれこそ末期に登場する人物なので(っても晋時代のエピソードもいくつか収録されていたが)、デザインは玉絵ではないものの本家公認といって差し支えなかろう。見た目通り運動音痴の才媛風で、長湖攻略直前を描いた漫画作品ではそれこそ何にもないところで足をもつれさせてすっ転ぶというドジっ娘ぶり。確かにこの有様なら、自転車なんか補助輪付いててもマトモに乗れるか怪しいところである。