解説 顧譚
-学三設定-
長湖生徒会において「沈黙の宰相」の異名をとった副会長顧雍の末妹。
同い年の従姉妹である顧承と共に、故あって学園を離れることとなった一つ上の姉顧邵の後任となるべく長湖部に迎えられ、煌くような文武の才覚に加えて桁外れな暗算能力を高く評価された。その才能を特に愛した孫権は、孫登の側近である「四友」にも抜擢し特に面倒を見たのだが、顧雍や顧邵ほど人格的に優れていたわけではなく、正義感が半端に強かった上に、才能を鼻にかけて横柄かつ勝手気ままに振舞うような面もあったため、あるホームパーティでの振る舞いがアレ過ぎて、めったに感情を表に出さない顧雍をマジギレさせたことすらあったという。さらに全寄を敵視しており、全寄は勿論のこと全琮からも忌み嫌われていた。
芍陂公園の攻防戦では顧承や張休と共に撤退軍の殿を務めて自ら陣頭に立って奮戦し、撤退を成功させる立役者になっていたが、この時に顧譚達を含む軍団の総指揮に全琮が就いていたことが間違いの元だった。全一家の面々は顧譚達に手柄を集中させるのは面白くないと殿の攻防に介入し、それ自体は結果的にプラスに働いて無事帰還できたのであるが、このときの論功行賞で当然のように顧譚達の評価が高くなったことを苦々しく思った全琮は、度々「顧譚達が監査の陳恂とグルになって手柄を独り占めした」と訴えた。後継者問題で頭を悩ませていた孫権はそれでも全琮と顧譚両方の顔を立てようと腐心したが、顧譚もこれまでの不満をぶちまけるかのように幹部会で堂々と全一家や孫覇を非難したため庇いきれなくなり、この件に噛んでいた張休なども諸共に幹部会の任を解いて交州へ追いやることしか出来なかった。これが決定打となって全琮と陸遜の関係まで険悪になり、「二宮事変」はさらに加速していくことになる。
顧譚はその後間もなく、陸遜までが幹部会を追われたことを知って長湖生徒会に失望し、悲憤に突き動かされるまま階級章を付き返すと、その後二度と長湖生徒会の領域に足を踏み入れることはなかったという。また張休と共に、これまでは互いに馬鹿にし合っていた陸凱とも結託して孫覇派を撃滅すべく武力蜂起を企てていたともいわれるが、秘話の域を出ない。
-史実・演義等-
顧譚 二〇五~二四六
字は子黙。呉の丞相顧雍の孫で、若くして亡くなったが優れた見識を持つことで知られた顧邵の子。系譜の上では陸績の外孫に当たる。
二十歳前後の歳で諸葛瑾の長男諸葛恪、陳武の次男陳表、張昭の末子張休とともに太子孫登の四友として、中庶子から輔正都尉へ転任した。陸遜の孫陸機が著した顧譚伝によれば、四友の中でも特に優れた見識の持ち主であり、暗算が得意で、帳簿の誤りも算木(計算用の道具)を一切使わず見つけ出し、正しい答えに直してしまうことが出来たことから配下の役人達はみな心服していた。さらに孫権は彼の才能を高く評価し、顧譚が上疏して意見を述べるときは食事中であってもそれを中断し、特別に厚く礼遇したともいう。一方で「呉書」の記述では、元来孤高を守るところがあった性格の持ち主で、他人との付き合いに気を使うことをしない面があったために他人の恨みを買うこともあったとある。また「江表伝」では、孫権に招かれた酒席で酔った挙句に調子に乗って舞を続け、後日顧雍から「お前のあの時の行動は、恩寵を恃んで慎みを忘れ、謙虚さを欠いている。わが家を損なうのはきっとお前に違いない」とこっぴどく叱られ、その場に二時間も立たされたエピソードが記されている。
後に奉車都尉を加官され、薛綜が選曹尚書に任じられたのを固辞しした際には顧譚の人物を賞賛し、のちに薛綜の後任に就くことになった。顧雍が世を去ると、顧譚は太常の役職に就き、また顧雍の跡を継いで平尚書事となった。その当時、孫権の四男に当たる魯王孫覇が、三男で皇太子の孫和と同等の扱いを受け、その取り巻きが権勢を振るっている状況にあり、それが後々呉の安寧を乱すと考えた顧譚は、上表して太子と庶子の区別をはっきりとさせるようにと訴えた。このことから孫覇派から恨みを買った顧譚は、その後孫覇と深いつながりのある全一族の讒言によって罪を得、弟の顧承や張休とともに交州に流刑されてしまうことになる。
顧譚は芍陂の戦い(二四〇年)の際、弟の顧承や張休とともに、一軍を壊滅させて勢いにのる魏軍を押し止め、その際に全琮の息子に当たる全緒らが反撃に加わって魏軍を撤退させる活躍をしていた。その論功行賞で、勢いに乗る敵軍を押し止めた顧譚兄弟や張休の功績のほうが上と評価され、全緒らよりも上の官職を与えられたり多くの褒賞を受けたりした。このことで彼らは全琮を筆頭とする全一族から恨みを買い、また顧譚は個人的に、孫覇にこびへつらう態度を見せていた全琮の次男全寄を軽蔑しており、険悪な関係にあった。孫権は全琮一家から「芍陂戦役の論功行賞では典軍の陳恂が顧譚達と結託していた」と繰り返し上言を受けたことで無視できなくなり、かといって自分のお気に入りの臣下であった顧譚を助けようと思い、群臣の中で顧譚が謝罪すれば罪を問わないつもりで彼を召喚した。だが顧譚は謝罪するどころか「陛下、讒言が盛んになりましょうぞ!」と言い放つ有様で、結局これが引き金となって罪を与えざるを得なくなり、それでも顧雍の功績に免じて死罪とはせず交州へ流刑となった。
顧譚は流刑地で悲憤し、二十編からなる「新言」を著したが、その中の「知難編」の内容は彼自身の境涯を悲しみ悼んだものだとされる。流罪から二年後、顧譚は弟の顧承や同時期に流刑されていた張休らと共に、交州交阯郡で四十二歳の生涯を終えた。顧家そのものは顧雍の爵位をその末子である顧済が継いだが、顧済に子がなかったために一度は絶えたものの、その兄である顧裕の子顧栄が爵位を継ぎ東晋以降も存続した。
-狐野郎が曰く-
顧雍や顧邵と比べると、どうしても人間的に今一歩な印象のある顧譚。酒の席でのやらかし案件は孫権の得意技(?)であるのだが、その孫権に「お前さんがいたら飲んでも迂闊に羽目を外せないなあ」なんて言わしめた顧雍の目の前で、酔った調子に乗ってずっと踊り続けたなんてあたりは怖いもの知らずというかなんというか。実際顧氏そのものは顧雍の言葉に反し、東晋時代にも江東の名族として重きをなした家柄としてきちんと存続しているが、確かに顧譚自身がいろいろ問題行動の多いとはいえ、孫権が孫覇への寵愛をおしてそれでも何とか助けようと考えていたあたり、それだけ見どころのあった人物ではあったのだろうと思う。むしろこのあたりの話を知れば知るほど、全琮の株が底値を突き抜けて大暴落していくんだけどあいつ本当になんなのかね。これについては全琮の項目で触れるけど。
学三SSでは父親にあたる顧邵がちょくちょく登場している印象があり、顧雍ともども来栖川姉妹がモチーフになってるのだからじゃあ顧譚は?となった場合一から作ることになったわけで、ちょっと生意気な感じのイメージで即興で作ったものをベースに、やや不良っぽいイメージを加えてリファインした。ぶっちゃけると、「ウマ娘」アプリリリース以降あまりにもサポートカード性能がアレ過ぎてネタ的に有名になってしまったことに定評のあるエアシャカールと、「東方聖蓮船」のメシウマ妖怪()封獣ぬえを綯交ぜにしたようなアシンメトリーな髪型であり、キャラ的には後者により近いイメージである。