解説 賀斉


-学三設定-

会稽棟を本拠としていたビーチバレー同好会の中心人物。
その性格は体育会系と言うにはあまりにも軽く、しかも根っからの派手好きでなおかつ少女趣味。ビーチバレー同好会(後にビーチバレー部)は特注品のフリル満載でラメ入りの派手なユニフォーム(というか水着)を着させられたが、彼女が預かる艦艇もこれでもかというほどド派手かつファンシーにデコられており、敵は勿論味方からもドン引きされるほどだった。それらは呂範や潘璋らと張り合って次第にエスカレートしていき、張昭の小言のタネになったが、孫権は(内心面白いので)戦績に免じて不問に処したという。
長湖部の中ではそれなりに古株で、孫策の代に長湖部に参画し、同好会存続のために培った折衝術を生かして長湖部の勢力拡大の一翼を担った。主に校区後方の治安維持に力を発揮し、特に山越高校の不良鎮圧で戦功を残した。長湖周辺に点在していた水上スポーツ系同好会集団から、ビーチバレー同好会が最も早いスピードで部として成り上がる原動力となったのは、彼女の存在があったからといっても過言ではない。また対外的にも合肥学園無双や濡須防衛線などに参加し、重要な役目を果たしている。特に後者は前述の満艦飾状態の艦艇で(色々あって)遅参したが、そのタイミングが絶妙すぎて、膠着した戦線の中で精神的に疲弊していた曹休も肝を潰して戦意喪失したほどだった。
妹や従妹たちも代々部に貢献し、孫晧による賀邵の粛清という悲劇を乗り越え、賀循は後に東晋ハイスクール創建に貢献することになった。


-史実・演義等-

賀斉 ?~二二七
字は公苗、会稽郡山陰の人。
会稽の賀氏は本来慶氏であったが、賀斉の叔父で高名な学者であった慶純(賀純)が朝廷に召しだされた際、漢の安帝の父(孝徳皇・劉慶)の諱を避けて賀氏に改めたという。賀斉の父賀輔も永寧県長を務めた。
賀斉は若くして会稽郡の役人となったが、その当時任侠気取りで徒党を組んで好き勝手をしていた斯従という官僚がいた。豪族出で多くの食客を抱える斯従に逆らうことに他の者は難色を示したが、賀斉は周囲の制止を振り切り斯従を法に照らして処刑し、その一党が意趣返しに攻め込んでくると、役人を指揮してあべこべにそれを撃退するなど苛烈な処断を行ったことで名を知られるようになった。それを皮切りに太末県や豊浦県などで住民反乱が起こると、転じて太末県長代行になり、帰順するものは保護、逆らうものはどんどん誅殺し、一年ほどで平定してしまった。
一九六年、江東の地に版図を広げていた孫策が会稽太守となると、賀斉は孝廉として推挙された。孫策に追われた前太守王朗を支援する為に侯官の商升が軍を起こし、討伐に向かった会稽南部都尉の韓晏が撃退されると、賀斉は韓晏に変わって南部都尉となり、それを聞いた商升は賀斉の威名を恐れて盟約を結ぼうとした。賀斉は使者を介して利害を解き、商升は帰順する気になったものの部下に反逆され殺されてしまったが、賀斉は相手の勢いが盛んなうちに派へ有為を休ませて様子見に徹し、やがて些細な利権争いから賊軍が内輪揉めで弱体化すると、たった一度の戦いでそれを撃滅した。上げた首級は六千以上、帰順した中から精強な者を選りすぐり万余の兵を得た。
以後も賀斉は様々な任地において幾度となく反乱を平定し、内患平定のスペシャリストとして孫呉に重きを成した。二一五年の合肥の戦い、二二三年の濡須口の戦いでも主要な武将として参戦しており、濡須口では任地からの行程の問題で着陣が遅れたものの、その分ほぼ無傷だった事もあり、賀斉の軍を中心に戦線を立て直すことが出来たという。
賀斉は生来派手好きで、特に軍装を整えることにそれが発揮された。彼の率いる軍は武器甲冑その他の軍用品に至るまで飛び切り精巧かつ上等なものが支給され、乗っている船には精緻な彫刻や彩色で飾り立て、蒙衝(小型巡洋艦)や戦艦の類は遠目で見るとまさに山のようであったという。濡須口の戦いでは、賀斉の軍が比較的損傷が軽微であった以上に、その軍装の派手さで寄せ手の大将であった曹休は肝を潰し、軍をまとめて引き下がってしまったとする記録があるほどで、それだけ度を超した派手さだったことが窺える。こうした功績もあって、賀斉は最終的に後将軍として仮節を与えられるまでになった。
二二七年に逝去。息子である賀達、賀景も優れた将軍として名が知られ、賀景の子賀邵は孫皓の時代に活躍した。


-狐野郎が曰く-

演義に未登場なため知名度はさほど高くないが、孫策・孫権二代に仕えた「縁の下の力持ち」。とにかく不服住民の反乱が起こる度に派遣され、柔剛自在の対応を駆使して瞬く間に平定してくるというほどの名将である。正史でも孫権麾下で最も出世が早かったと書かれており、最近の「三国志」シリーズにも登場しているがもっと能力値高くてもいいんじゃないかと思う。というか少なくとも政治と統率は80後半以上ありそうだよな。
賀斉の軍装のド派手さは賀斉伝によると「武器甲冑はとびきり精巧で上等、乗船には彫刻や彩色を施し透かし彫りで飾り、大小の矛盾には花模様を鮮やかに画き、、蒙衝戦艦の類は遠目で見るとまさに山のようであった」と語られており、なんというかとにかく目立つことは間違いないだろう。目立つということは的になりやすいというのもあるだろうけど、何よりその威嚇効果はハンパなかったようで、曹休も肝を潰して逃げ帰ったとか書いてあるしね。特に軍事面で派手さを発揮したらしいけど、実生活はどうだったんだろうねえ。呂範や潘璋のように衣装が派手だったりとか、邸宅を身分不相応にデコったとか、自分が着飾るために部下を頃して金品を巻き上げたとかいう話はないが、軍装の派手さが目立ったぐらいなのか、それとも普段のことはまあ騒ぐほどのことじゃないか…(スナネコメソッド)だったのかは解りかねるところだ。
学三賀斉もとにかく派手好きの面だけがクローズアップされている。というか軍船軍装を少女趣味に飾り付けるって想像つかないんだがどういうことなんだろう…ポケモンのキョダイマックスマホイップみたいな?確かにそれはドン引きするなあ。あとどうでもいい話だけどこのデザイン、第一印象から少女バトル漫画の傑作「美少女戦士セーラームーン」の主人公月野うさぎっぽいな、と思ったのはここだけの話。