解説 周處


-学三設定-

長湖部が長湖生徒会となった契機「石亭謀略戦」において、曹休を誘引するキーマンとなった名将周魴の妹。
幼い頃から多くの格闘技を習熟し、その勇猛さが過ぎて粗暴で勝手気ままに振る舞うことから周囲から鼻つまみ者にされていた。当然周魴の妹という関係からユースに招かれてもその無学で粗暴な面から後ろ指を指されることも常であり、周處もそれを知って尚更憤懣を隠す様なことをしなかったものの、幼馴染みでもある陸雲とは仲が良く、彼女も陸雲には一目置いていたことからその忠告に従い少しずつ自分の行いを改めていった。その頃にはよく学問も修め、生来正義感も強いことから寡黙で木訥な存在になってくるとやがて彼女を周囲も認めていった。
長湖生徒会が解体されると、陸雲と共に司馬晋生徒会の傘下に入る。才能を認められた周處は湖南を中心に棟長を歴任し、どの任地でも高い地積を残したことでついに生徒会中枢部に風紀委員として招かれるが、貴族令嬢の類にも決して退くことなく悪事を糾弾することから、「清流会」を中心として多くの者から煙たがられるようになった。
斉万年が西羌高校を中心とした学園都市内共学校の不穏分子を糾合し反乱を起こすと、名目上はその優れた軍事的才幹から先鋒軍を任されることとなったが、宛がわれた一般部員は体調不良の者、右も左も解らないような新入生ばかりという惨憺たる有様であった。これは反乱掃討軍を総大将として纏める「梁の君」司馬肜や夏侯駿といった輩が、常日頃から自分たちの得手勝手を細かく糾弾してくるだけでもなく幹部会からその治績の評価も高い周處を憎悪しており、周處に弱兵を宛がって無様に敗北させる事で意趣返しをしようとしたものであったため、再三の支援要請も全て握りつぶしていた。周處はそれを察知しながらも一切不平を漏らすことなく、部下を労り鼓舞して短い間で戦いの準備を整えさせると、己の最後の戦いであると覚悟の短歌を朗々と詠い上げ、先陣切って十数倍にもなる男子高反乱軍に突撃。単独でその三割以上の反乱軍勢を戦闘不能に追込み、その軍団も奮起して最後まで抗うも、力尽きてその全員と運命を共にした。
斉万年も周處を強敵として認知しており、「もしコイツが軍の総大将を任されてるようなら勝ち目は0だが、誰かに足で使われているようなら負けることはまずない」と言っており、戦闘後はポーズで司馬肜の軍団に襲いかかり逃げ散らさせると、周處とその軍団の中で大怪我をした者などに病院を手配し、丁重にもてなしたという。その後は回復した「仲間達」と共に名を変え、西羌高校の軍団をまとめて名将孟観とも干戈を交えたともいう。


-史実・演義等-

周處 二三六~二九七
字は子隠、呉郡陽羨県の人。石亭の戦いで曹休をおびき寄せるのに功績があった周魴の子。
周處は若くして父を失ったが、二十歳を迎える頃には人並み外れた膂力を得るようになり、また乗馬や狩猟を好んだ。一方で細かい作法は一切気にかけず、気ままに振舞い狼藉を働くような面があったため、郷里の嫌われ者であった。
この頃の伝説として後に京劇の演目にもなった「周處除三害」というものがある。ある年のこと、豊作を喜ばない民衆を不思議がった周處がその理由を土地の古老に尋ねると「南山に猛虎が居り、長橋に蛟がおり、そしてお主という『三害』がいるからじゃ」と答えた。周處はそこで山に行って件の猛虎を刺し殺し、橋に向かって死闘の末蛟を殺すと戻って来たが、周處が怪物達に挑んで死んだと思い込んでいた民達が喜ぶ姿を見て、自分が憎まれていることを知ったというものだ。この話の真偽はともかくとして、己が忌み嫌われるていることを知った周処は、憤りを覚えるとともに行いを改めようと決意し、地元呉郡の名士である陸機・陸雲兄弟を訪ね、陸雲と面会できた周處は「私は年を取り過ぎ、今更己の行いを正すことなど出来るのでしょうか」と問うと、陸雲は「古代の人は『朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり』と言いました。あなたにはまだ前途に見込みがありますよ」と諭し励ました。これを機に学問に打ち込むようになった周処は、文章にしっかりした思想を込め、志に義烈を旨とし、言葉には必ず真心を込めて私心を押さえるようになると徐々に認められるようになり、やがて州の役所に招かれて呉に仕え、孫皓の時代には無難督の役職に就いた。呉が滅びるとそのまま晋王朝に任用され、一時は年老いた母の面倒を見る名目で官を辞していた事もあったが、辺境の各地の太守を歴任して高い治績をあげ、やがて御史中丞に昇進。だが彼は皇帝の寵臣や外戚といった特権階級の者に対しても容赦なく糾弾したため、朝臣たちからその剛直ぶりを疎まれた。
西方の異民族である氐族の斉万年が反乱を起こすと、朝臣たちは口をそろえて「周處は呉の名将周魴の子であり、忠烈果断である」と進言したため、周處は梁王司馬肜と貴族の夏侯駿らを総大将とする征西軍に従軍させられることとなった。司馬肜はそれより前に、自分の侵した失態について周處から厳しく取り調べられたことを心底恨んでおり、周處もまた、司馬肜が自分を恨んでいることを察していたため、恐らくは生きて帰れないことを悟って悲壮な決意を胸に進発した。先鋒を申し付けられた周処は僅か五千の、しかも食事もロクに与えられず衰弱しきった兵士しか与えられず、しかもそれで七万にもなる反乱軍に当たるよう強要された。援軍どころか司馬肜から「さっさと進軍しろ」と督促される有様に周處は、この戦場こそが己の死に場所であると覚悟を決め、詩賦を吟じ終えると戦闘を開始。朝から夕方まで戦い抜いて反乱軍の首級一万を挙げるほどの奮戦振りを見せたが、結局物量の前に軍は敗れた。援護の軍も来ず、左右の側近達は周處に撤退を勧めたが、周處は「私は大臣として国家に殉ずる。それも結構なことではないか!」と言い放ち、最期まで戦い抜いて戦死した。時に周處は六十二歳であったという。
斉万年は周處の恐ろしさをよく知っており「周府君(周處)の専断が許されていれば(総大将として来ていれば)絶対に勝てないが、誰かに掣肘されているなら恐れるまでもない」と評しており、またその出陣の前に中書令の陳準(陳羣の一族に当たる)が「梁王や夏侯駿如きは将軍の器でなく、高貴な身分のため勝っても名声にならず、負けても罰せられないから本腰を入れて戦うことなどありません。一方で周處は呉の人であり、朝廷ではその剛毅さから嫌われておりますが忠烈にして勇猛です。積弩将軍の孟観(後に斉万年の反乱を鎮圧する晋の名将)に精兵一万人を与えて周處の先鋒とすれば必ず賊を鎮圧できるでしょう。しかしそうしなければ、梁王は周處に先鋒を命じ、故意に援軍を出さず見殺しにするでしょう」と上奏するも握りつぶされてしまっている。元孫呉の皇族であった将軍孫秀も周處に「あなたには年老いた母君もいる。それを口実に(かつて一度官を辞したときのように)辞退しても良いのですよ」と提言しているが、「忠と孝の両方を全うする事はできない。今こそ私の死に時なのだ」と退けている。
死後に平西将軍の位を追贈され、多くの下賜品が遺族に送られると共に、年老いた周處の母親にも手厚い保護が与えられた他、東晋が成立すると元帝司馬睿は彼に「孝公」と謚した。また周處は「呉書」を編集したり、「風土記」を著すなど著作の面でも多くの作品を残していた事でも知られている。


-狐野郎が曰く-

実は彼の父に当たる周魴、そこまで詳しい記述が残っている人物ではなかったりする。周處もその伝は晋書にあり、周魴伝ではその簡単な経歴が触れられて居るのみである。ただ周處には多くの著作があることもあるし、若い頃のエピソードというか伝説が京劇の演目になっていたりで、周魴よりも多くの事績が伝わっていたりする。剛直で嫌われながらもその忠節を後に認められたというのは、彼にとって幸せなことだったのか解りかねる部分だ。というか、亡くなったときに六十超えてたんだったらこの人のカーチャンはいくつだったんだろう。
彼の最期の戦いは凄絶の一言に尽き、これもし弱兵の上寡兵で周處が斉万年を撃滅してしまったらファッキン梁王とかどうするつもりだったんだろうか。あの兵数で二倍以上の反乱兵を始末してるとか、そりゃ内容の胡乱な事に定評がある晋書のことだから何処まで本当だか知れたもんじゃないが、こういう伝説めいた戦績が後世に残っていたのは果たして司馬氏憎しの世情故か、あるいは本当に周處が化け物じみた猛将だったからなのか、あるいはその両方か。これもうわっかんねえな。つかその時には六十超えたじいさんだぞ、と言ってしまうのは簡単だが、蜀の道なき道を踏破したときの鄧艾が七十のじじいだったことを考えると、ないと言い切れないのが怖いなあ。「まだ六十」と言える勢いだもんな。
晋書周處伝では生真面目で正義感は強いと言うことなので、ちょっと強気そうな格闘少女をイメージしている。部分的には「ウマ娘」というか「シンデレラグレイ」のヤエノムテキをイメージしてリファインしているが、元々はなにをイメージしてたんだろう。髪型からすれば「餓狼伝説」のキム・カッファンかも知れないが、覚えてないんだよなあ。