解説 趙儼


-学三解説-

予州のエリート集団である「潁川組」のひとり。
洛陽を中心とした学園中枢部の混乱が酷くなると、難を逃れて荊州学区に身を寄せており、当時は杜襲、繁欽とアパートの同じ部屋で共同生活を行っていた。やがて曹操が許棟に「献サマ」こと蒼天生徒会長・劉協を迎え入れると、曹操の将来性を高く評価し、直属の報道機関である「蒼天通信」の一部員となった。
曹操もまた趙儼の能力を高く評価し、主に部員達の間に起こった諍いの調停を任せた。始め張遼、于禁、楽進は互いに協調せず、勝手勝手に振舞っていたが、彼女らの仲を取り持ったのは他ならぬ趙儼である。やがて于禁は張遼の技術を高く評価するようになり、張遼と楽進もプライベートを共にするほどの仲になった。こうした折衝能力を買われ、やがて曹操配下の主力であった七つの軍団の総指揮を任されたが、そこで軍事的才幹にも頭角を現し、関中陸上部連合の平定、漢中アスレチックの平定、関羽の北伐などにも主要な参謀として参戦した。関羽が北上を開始していた際、于禁が不運にも川の氾濫に遭って大敗北を喫すると、彼女は徐晃軍団の参謀として従軍。水浸しになって樊棟から身動きが取れなくなっていた曹仁・満寵両将を含む樊棟守備軍に起死回生の救出策を提案、成功させ、本拠を長湖部に奪われた関羽が軍を引くまで同地を死守する立役者となった。
その後も曹氏蒼天会三代にわたって大任を勤め上げ、最終的には対帰宅部連合戦線の総責任者として後に続く郭淮、陳泰、鄧艾らの範となった。


-史実・演義等-

趙儼 一七一~二四五
字は伯然。潁川郡陽翟県の人。
戦乱を逃れて荊州に移り住み、杜襲や繁欽らの士人とともに、一つ屋根の元で私財を共有しながら生活していた。曹操が献帝を奉戴して間もなくの一九七年、曹操の将来性を高く評価した趙儼は、一族を引き連れて曹操の下へ赴き、その任用を受けた。時に趙儼は二十七歳であったという。
まず地方官となった趙儼は、最初の赴任地で権勢をかさに得手勝手な振る舞いをする地元の有力者達を片っ端から投獄するも、慈悲を示してすぐに解放し彼等を懐柔していった。袁紹が南進してくる素振りを見せ、その下準備として豫州各郡を味方に付けようと調略の手を伸ばしてくると、都尉の李通が慌てて(対抗する兵を養うための軍費としてか)緊急に徴税を行おうとしたところ、趙儼は「多くの郡が動揺しており、臨時に徴税するにしても慎重に行うべきだ」と述べた。李通がなおも自分の意見を押し通して徴税を断行しようとすると、趙儼は彼の意見に賛意を示すと見せかけて荀彧に文書を送り、荀彧は彼の意見を受けて「公(曹操)の文書を郡に下し、(臨時徴収した租税の)絹や綿は全て人民に返還するように致しましょう」と返書した。このことに官吏も民衆も喜び、郡の動揺は収まったという。やがて司空付きの主簿(秘書官)となって中央の政務に携わった。
彼が主簿になった頃、于禁、張遼、楽進がそれぞれの任地で協調もせず勝手に振舞っていたが、曹操は趙儼を彼らの参軍として監督させたところ、趙儼は三人の間を取り持ち、やがて三人は友誼を結んで協力し合うようになったという。こうしたことから、南征に際しては都督として張遼、張郃、于禁、李典などが中心となる七つの軍を総括する大役を任された。
その後、関中軍閥の掃討や漢中攻略にも参戦。この戦いにおける降伏兵は動揺がなかなか収まらず、何時反乱を起こしてもおかしくない雰囲気があったが、趙儼は彼らを少しずつ教え諭し、その心を落ち着かせて反乱を防ぐのに尽力した。関羽が樊城に攻め込んできた際、徐晃の軍に従軍してその迎撃に当たった。関羽の軍を引かせるための作戦を立案し、関羽が軍を引いた後もむやみに追撃をしないように進言して認められている。
曹丕が帝位に就くと侍中の職に就き、曹休が孫権の軍に対抗した際には軍師として召し寄せられた。
その後も順調に出世し、曹芳の代まで曹氏四代に仕えた。二四三年、都督雍涼諸軍事の大役に就いていた趙儼は病にかかり、嘆願して中央に戻り、驃騎将軍に叙任された。「魏略」には恐らくこの頃のエピソードで、出立したあとに趙儼は常服していた薬を持ってくることを忘れたことに気がついたが、そのことを聞きつけた元の任地(雍州)の者が様々な薬材を納めた数個の箱を慌てて趙儼の元へ送り届けると、趙儼は笑って「人間の言葉というのは難しいものだ。わしが言ったのは、わしがいつも飲んでいた薬のことであり、このような(使い道も解らない)薬ばかり貰ってどうしろというのだ」と述べて、受け取らなかったというものがある。
中央に戻ってしばらくして司空に任じられ、間もなく病死した。彼が司空に昇進したのは二四五年二月で、逝去したのがそのわずか四ヶ月後であることは、「斉王紀(四代皇帝となった曹芳の伝)」に記述がある。趙儼は同じ潁川郡出身の名士であった辛毘、陳羣、杜襲と並び称される名声があったため、世の士人はこの四人をさして「辛陳杜趙」と呼んでいたという。
なお演義においてはこれといった出番は存在せず、それを題材にした作品でも彼の名を見出すことは難しい。曹操を主人公とした「蒼天航路」では関中軍閥と戦った際に、「戦のあとにこの地を安定させるための人材」の一人として登場。関羽の樊攻めの際にも徐晃の副官として、徐晃に無茶振りをする役回りで登場する。


-狐野郎が曰く-

しつこいようだが演義ではほぼ出番がない(はず)。吉川英治「三国志」ですら、その名を見いだせないレベルであり、「蒼天航路」でその存在を知った人も多いのではないだろうか。伝の記述もさほど多くないが、内政官としても軍官としても非常に有能な人物であること、張遼達が得手勝手に反目し合ってるのを調停するなど、一癖も二癖もある猛将達の潤滑油となっていた事もうかがえるだろう。「魏略」のエピソードからもおおらかな人格者だったのかも知れないが、一方で臨時税徴収の件では荀彧を動かして自分の意見を貫徹させようとするとなかなか強かな面もある。李通にしてみりゃ面子を潰された格好になったかも知れないが、まあ騒ぐほどのことじゃないんじゃないかな(ォ
さて、そんな「知る人ぞ知る」レベルの趙伯然を何故ここで引き合いに出すことにしたのか、ただ単純に「なんか子載ちゃん(鄧艾)絡みでなんかSS書きてえなあ」って思ったとき、陳泰・郭淮の二人組だけじゃまだなんか足りねえな、ってなったときにじゃあ誰がいる?と考えて色々この辺りの人物達でしっくりきそうということで彼(彼女?)に白羽の矢が立った。しかしながら、この「雍涼軍団トリオ」の話が形になったのはごく最近の話であり、ある意味ほとんど記憶の片隅に置き去りにされていた学三コンテンツを自分の中で再発掘する切欠になったようにも思える。
そんな雍涼校区収容Keterクラスオブジェクト・伯然さんのモチーフの基板になったのは「ポップンミュージック」のミニッツ。うん全く間違ったことは書いてない。茶髪なら兄貴(タイマー)じゃないか?と思う方ももしかしたら居るかも知れないが性格的にはそもそもどっちにも当てはまらないしそもそもなんでミニッツだったのか、ソレガワカラナイ()。一応人食ったようなツリ目がちにして「クセモノおねえちゃん」っぽい感じも出してみたが、どうだろうか。