解説 馬良


-学三設定-

荊州校区で名を馳せた馬家五姉妹の四女。
馬家は校区内で蔡家等と並び称されるほど有名な一家で、中でも馬良は秀才で知られる馬姉妹の中で最も優れていると評判が高く、生まれつき眉毛だけが白いため「(馬家の)ハクビちゃん」という綽名でも有名であった。
諸葛亮とも親しい間柄で、その縁で帰宅部連合に参画し、関羽のもとで荊州校区の運営に当たるが、劉備が益州を平定すると益州校区へ呼び寄せられることとなった。長湖部連合との連絡役を担った際には自らの紹介文を作成、その見事な内容に孫権は丁重に馬良をもてなしたという。
関羽軍団が崩壊し荊州の領有権を失うと、怒りで自分を見失いかけている劉備に諸葛亮は馬良を諜報員として荊州へ赴かせる策を何とか押し通させた。馬良には武陵・夷陵地区の顔役とのコネクションがあったため、序盤こそその折衝がうまくいき沙摩柯ら有力者を味方に引き入れることに成功。馬良の功績により地の利を得たかのように見えたが、劉備のありえない采配ミスを突いた陸遜率いる長湖部軍団の総攻撃を受け、連合の軍が総敗北を喫した際に、長湖部に寝返り暴徒と化した一般生徒の襲撃を受け負傷、階級章も奪われリタイアと相成った。
諸葛亮は彼女のリタイヤをいたく惜しみ、元々その才覚を愛していた妹の馬謖をますます可愛がる様になった。しかしそれが後に、連合にとって更なる悲劇を呼ぶこととなる…。


-史実・演義等-

馬良 一八七~二二二
字は季常、襄陽郡宜城県の人。襄陽馬氏の五兄弟はいずれも優れた才能の持ち主であったが、四男の馬良はその中で抜きん出ていると評されており、その眉には白い毛が多かったため、郷里の人々は(兄弟全員が字に「常」の字を使っていたことから)「馬氏五常、白眉最も良し」と囃したという。現在も成句として残る「白眉」の語源となった人物である。
劉備が荊州の地を得たとき、馬良は召しだされて従事に任じられた。既に劉備の任用を受けていた諸葛亮は馬良と親しい間柄であったようで、手紙で彼らがやり取りをする際、馬良は諸葛亮に対して「尊兄」と呼んでいることから、裴松之は馬良が諸葛亮の親戚であったか、あるいは義兄弟であったのではないかと推測している。
諸葛亮が蜀に赴いた際は荊州に残っていたが、益州平定後劉備に召し寄せられて左将軍掾に任命された。間もなく孫権の元へ使者として赴くこととなったが、その際諸葛亮に「私を孫将軍へ紹介していただけませんか」と問うと、諸葛亮は「じゃあ、先ず君が自己紹介の文を書いてみなさい」と言った。その自己紹介文を見た孫権もいたく感心したようで、使者としてやってきた馬良に敬意をもって対応した。
劉備が帝位に就くと侍中の職に就き、夷陵の戦いにも従軍した。劉備は馬良に命じて五渓の異民族を帰順させその助力を得ることに成功したが、陸遜の火計が図に当たって蜀軍が総敗北を喫すると、馬良も混乱のうちに殺害された。享年は三十六。劉備はその息子を官職に取り立て、弟の馬謖は諸葛亮の参軍として重く用いられた。


-狐野郎が曰く-

「白眉」という言葉は成句として教科書にも掲載されているが、あまり聞かない言葉のような気がする。このキャッチフレーズ(?)もあってか、演義でも正史でも鳴物入りみたいな感じで登場する印象のある馬良であるが、歴史の表舞台において成したことはあまりにも少ない。上では触れていないが演義だと、南蛮遠征の時に馬謖が初登場するシーンで訃報がもたらされて終わるのみで、何故か史実より無駄に四年も長生きさせられている。演義での相違点としては、関羽が北上を始めた時もその参謀として従っているが、ここでも直接劉備の元に孫権の背信があったことを伝える使者として益州に赴いている(しかも、正史では馬良同様当時は劉備と一緒にいたはずの伊籍と一緒にだ)くらいの出番しかない。キャッチフレーズばかりがデカすぎて結局大したことはまるでしていない、そんな印象である。コーエーの三国志シリーズでは何故かやたら知力が高いのだが、査定が甘すぎるのでは…と思う程度には本当に何もしていない。調略に成功したとはいえ、結果的にとはいえ戦闘の趨勢を決めるほどではなかったしねえ。
学三馬良は白眉太眉の眼鏡っ娘。諸葛亮との馴れ初めはわからないが、史実で諸葛亮と古くから付き合いのあった者は大体その学友であるから、一応文系という扱いになっているのだろう。実際孫権に宛てた自分の自己紹介文(??)では、他国の使者をからかって楽しむことを趣味としている()孫権をうならせているぐらいだから、そういう方面の才能には秀でてはいるんだろうし文学には強そうだよな。本当に視力がいいのか悪いのかはわからないが。