解説 馬謖


-学三設定-

馬良の妹で、馬家五姉妹の末妹。
馬良と一緒に、帰宅部連合の母体である劉備新聞の中枢に参画し、劉備のアシスタントを務めながら益州入りに随行。以後、益州校区の執行委員、棟長を歴任してその才能が話題となる。
諸葛亮とはすぐ上の姉である馬良共々親密な関係にあり、諸葛亮は実の妹と同じくらい馬謖を溺愛していた。だが劉備はそんな馬謖の欠点を見抜いていたらしく、引退に際して諸葛亮に「幼常の言葉はいちいち大げさすぎる、重要な局面で重要な任務与えたらアカンで」と忠告していった。それでも諸葛亮は馬謖を直属のアシスタントとして重用し、北伐に際しては生徒会との決戦の舞台設置の責任者を任されることになった。
ところが、功に焦った馬謖は副将の王平を疎んじ、挙句に諸葛亮の指示まで無視し独断でセットを変更してしまう。馬謖の対応を任された張郃はそのセットの欠陥を即座に見抜き、綿密な罠を張った上で行動を起こしたため連合のステージは敢えなく崩壊してしまった。
結果、全軍撤退を余儀なくされ、北伐は完全な失敗に終わる。
A級戦犯となった馬謖に対してはまたその才を惜しんで助命の声も少なくなかったが、諸葛亮は血の涙を流しながら処断を断行し、自らも総帥代行の地位を返上して責任の所在を明らかにしたのだった。諸葛亮がここまで厳格に処断を行った裏には、馬謖がステージ上の欠陥と張郃の仕掛けた罠を土壇場で気づいたものの、対処が出来ぬ焦りと恐怖がピークに達したことで衝動的に自分一人で逃走するという大失態を犯した事を知り、劉備の忠告を無視してしまったことを激しく後悔したためだとも言われる。


-史実・演義等-

馬謖 一九〇~二二八
字は幼常、襄陽郡宜城県の人。「白眉」の成句で知られる馬良の弟に当たる。馬良と共に劉備の任用を受け、荊州従事として劉備の蜀攻略にも従軍。蜀平定後は成都県令や緜竹県令、南方の越雋郡太守などを歴任した。
才知に溢れ、軍事戦略を論じることを好み、諸葛亮は彼の才覚を非常に高く評価していた。しかし劉備は長く馬謖を側近としてしていたこともあり、馬謖の発言には実力不相応なことが多いことを知っており、臨終の際には諸葛亮へ「馬謖には身の丈に合わぬ大言壮語が多いから、絶対に重要な仕事を任せてはならないぞ」と忠告している。ところが諸葛亮は馬謖の才能を愛するがゆえか、劉備の言葉に従わず、馬謖を自分の参軍に任命して側近くにおいて、時に昼夜問わず親しく議論を交し合った。「襄陽記」によれば、南中遠征の際に諸葛亮から戦略を問われた馬謖は、南中と益州本国が遠く離れていることから、同地の反乱民を一度二度打ち破ったところで反逆を繰り返すだけであると述べ、重ねて「用兵の道は城を攻めるを下策とし、心を攻めるを上策とします」と述べた。諸葛亮は馬謖の言葉を嘉し、演義で「七縱七擒(七度捕え七度放つ)」と描かれる寛大さをもって、南中反乱軍の長である孟獲を屈服させると共に、諸葛亮の死後まで南中が再び反逆することはなかったのだと記している。
二二八年、天水など涼州の三郡を平定した諸葛亮は北伐軍を祁山に進めたが、食料輸送路の要衝に当たる街亭の地の護りに、周囲が経験豊富な魏延や呉懿らを推薦するのを押し切って馬謖を抜擢する。馬謖は副将であった王平の諌めも聞かず、地の利を得ることに固執し山上に陣を構えて魏軍に当たったが、街亭周辺は水源を得ることが非常に困難な土地柄であり、寄せ手の大将である張郃に麓の水源を断たれたことで馬謖率いる守備の本隊は打ち破られた。一説にはこの際、事態の重大さに恐怖を覚えた馬謖は、張郃が総攻撃をかける直前わずかな側近と共に敵前逃亡したため、指揮官を失った守備軍はなすすべもなく壊滅したとも言われる。
何れにせよこの手痛い敗北により涼州三郡の維持すら不可能になった蜀軍は完全撤退を余儀なくされ、馬謖はこの敗戦における戦犯の筆頭として投獄、処刑されることとなった。「襄陽記」では馬謖は事態を重く受け止め、潔く刑場の露と消えて全軍がその死を惜しんで涙したと記しているが、先述の敵前逃亡説に関連し、馬謖と親しいある人がその身を匿い、馬謖が捕縛され投獄されると同罪として共に処刑されたという話もある。また蒋琬は諸葛亮に「天下が定まらぬこの時に、馬謖程の人材を殺すのは不利益である」と諌めるも、諸葛亮は孫武(孫子)が賞罰を明らかにして軍の綱紀を引き締めた古の例を引き、涙を流して処断に踏み切ったとされる。このことから「親しい者を苦渋の決断で罰する」事の喩として「泣いて馬謖を斬る」という諺が生まれた。


-狐野郎が曰く-

「白眉」馬良共々、兄弟そろって故事成句の成り立ちに名を残すというのは凄いことであるのだが、馬謖の場合は完全なセプク案件なのでどう贔屓目に見ても褒められるようなことではない。劉備が「馬謖の発言が実力不相応なことを見抜いていた」事を取って「馬謖は口ばっかり野郎だった」と早合点するうっかり野郎もいるかもだが、正史馬良伝に「馬氏の五兄弟は全員優れた才能を持っていた」と明記されているため「素質だけは確か」ではあったはず。諸葛恪に近いタイプなのかも知れないが、諸葛亮がその才能を愛して傍近くに置いていただけでなく、少なくとも劉備の指摘以外に人格的な問題点が指摘されていないあたりでは、それなりに優等生じみた振る舞いはしていたことであろう。
馬謖処刑に関しては習鑿歯も「あまりにやり方が厳格に過ぎ、(孫武の例を引き合いに出しているくせに)古の例でも才能ある人物の罪を赦し後に名を成さしめた多くの例を無視している。(諸葛亮が)天下を併呑できなかったのも当然」と指摘している。確かに馬良伝に語られる事績だけを見ればそれはもっともなのだが、上述した通り「不利を悟って事態を収拾しないどころか敵前逃亡をかましたという説がある」と聞くと、習鑿歯の意見も間違ってはないけど、軍法上では厳罰ではないというかむしろ普通に血祭りに上げられて当然の大戦犯でしかないんだよな。昔は確かに習鑿歯の言うとおりで孔明やり過ぎだと思ったが、そういう説が出てくるに当たりやっぱこいつ見せしめに殺してしまって正解だったのではないかと思う。まあそれでも劉備の忠告をシカトした諸葛亮のインガオホーなのは、どの説が正しいにしても間違いあるまい。
学三馬謖は白眉でない馬良、みたいなイメージ。ただキービジュアル的にもかなりナマイキそうではある。