解説 王平


-学三設定-

益州校区出身の少女。もとは母方の何姓を名乗っていたが後に復姓した。
結構な頑固者で人の好き嫌いが激しく、また生粋の体育会系で、成績の方は低空飛行を続けていた。特に「極度の活字アレルギー」と自称するくらい語学関係が壊滅的で、小学校で習う程度の漢字すらロクに読み書きできない有様であったが、元々素質はあったのか、ほとんどの文学作品はあらすじを聞いて大体どんな話なのかをちゃんと理解していたという。また彼女の書く意見書の文章もひらがなだらけで読みづらいものだったが、本人を交えてキチンと内容を正すと、その内容は理路整然としており多くの者を唸らせたという。
始めは蒼天会に所属し、夏侯淵脱落の逆襲に乗り出した曹操の軍に案内役として随行するが、布陣を巡って主将の徐晃と対立したことがきっかけで帰宅部連合に投降する。
連合内では剣道同好会に所属、後にその主将となり、諸葛亮の第一次北伐では馬謖の副将となった。馬謖は独断で街亭周辺に用意された舞台のセッティングを変更した挙句、難解な指示ばかりを飛ばしてチームを混乱させたために度々王平は忠告したが、馬謖は王平が無学な上に元々は蒼天会所属であったことから完全にバカにして取り合わなかった。王平はもう一度蒼天会に鞍替えするのも癪だったので、馬謖が失敗するのを見越して方策を練り、その予想通りに馬謖本隊が総崩れになると、寡兵ながら見事な駆け引きで張郃を退かせ、その隙に敗走する本体のフォローも行って撤退戦を成功させた。愛弟子のありえない失態に意気消沈していた諸葛亮も王平の行動を非常に喜んで、馬謖達に与えていた重任をそのまま王平に任せることとした。
大任を任された王平はその期待によく応え、蒼天生徒会との度重なる決戦で着実に責務を果たし、諸葛亮の引退後は呉懿や蒋琬の補佐役を経て漢中アスレチックの総督となる。曹爽の遠征も堅守して撃退し、帰宅部連合の北の守りを全うした。
彼女と幼馴染みの句扶も同様に才を発揮し「前衛には王平と句扶、後衛には張翼と廖化がいる」と称された。


-史実・演義等-

王平 ?~二四八
字は子均、巴西郡宕渠県の人。
母方の何家で養われていたため、当初は何氏を名乗っていたが、後に王氏に復姓した。はじめは魏に仕えて校尉となり曹操の漢中征伐に従ったが、彼はその最中に劉備に降伏し、取り立てられて牙門将・裨将軍となった。
二二八年、参軍の馬謖が率いる先鋒隊に属したが、馬謖は街亭の水源の守りを無視して山頂の布陣に拘泥し、下される指示は煩雑を極めたため、王平は幾度となく馬謖を諌めたが聞き入れられることはなかった。結局結局馬謖の率いる本隊は総敗北を喫したが、王平は宛がわれた千余りの軍勢で踏みとどまり、そのために魏の大将張郃に伏兵を疑わせて、撤退に貢献した。諸葛亮は馬謖とその側近達を戦犯として処刑する一方、絶望的な敗走の中で奮戦した王平には特別に敬意を払い、討冦将軍・亭侯に封じて参軍を加官し、軍営の仕事に当たらせた。二三一年の祁山攻めでは南の軍営を守護し、張郃に対して堅守を貫いた。
諸葛亮の死後、魏延が叛いたときにも功績があったとされ、車騎将軍呉懿の副将として漢中に留まり、安漢将軍に昇進するとともに漢中太守を兼任した。二三七年に呉懿が亡くなると、その後任として漢中の総指揮を任されるとともに爵位を安漢侯に進められ、翌年蒋琬が漢中に赴任すると、その副官として幕府の事務に当たった。
二四三年、蒋琬が病の為漢中を去ると、再び漢中の総指揮を執ることとなった。翌年、曹真の子曹爽が十万余の軍勢を率いて漢中に侵攻してきたが、このとき、漢中に駐屯する軍勢は三万にも満たない状態であった。そのため「前線の城を捨てて漢中の要所の守りを固めるべき」と言う意見が出たが、王平は前線の要害に別働隊を派遣し、埼角の構えを取って当たることが上策と考え、実行に移した。果たして曹爽は攻めあぐねるどころか、援軍の到着まで持ちこたえられてしまったことで総敗北を喫し、別働隊を率いていた郭淮はいち早く引き上げてしまったという。
王平は戦陣の中で成長したため、文字は十ほどしか知らず、文書を作成する際は口述で側近に書かせていたが、その内容は総て筋の通ったものであった。また「史記」などの書物についても、人に語り聞かせてもらって、それらの内容の大筋を理解していたと言う。法律や規則を遵守し、冗談の類を一切口にしなかったというが、一方で偏狭な性格の持ち主で疑り深く、軽はずみな面があったという。
二四八年に死去し、子の王訓がその爵位を継いだ。


-狐野郎が曰く-

典型的な叩き上げ軍人であり、演義と正史では委細は異なるものの曹操から劉備へ鞍替えした経歴を持つ。演義では徐晃と戦略上の行き違いから殺されかけたのを恨んで寝返りを打ったのだが、そのことを考えると馬謖のアホさ加減に呆れて魏に寝返ってもおかしくはなかったんだが、そこは「魏に居場所がなくなったから」と、ケツまくった相手にホイホイとまた尻尾振ってくる孟達如きとは違うといったところか。
おそらくは家柄もそこまでよくなかった彼が、文字も十個ほどしか解らないほど無学であったのは時代が時代だけに仕方のないところであるが、それでも読み聞かせてもらった書物の要点を完璧に把握していたり、口頭で読み上げた「上奏文」を書きとめてみれば内容は理に適ったものだったり、果ては難物の叩き上げかと思えば見事な軍略で兵数の不利を跳ね返したり。蜀漢の名将と言って差し支えないであろう。
学三のデザインも派手さのない、そこらにいるような普通の少女である。体育会系かどうかはよくわからんけど。