解説 句扶


-学三設定-

益州校区の顔役の一人で、王平とは幼馴染み。
武勇に優れ、温和な性格の持ち主であったとされる。諸葛亮の北伐においても主力としてチームを率い、堅実に戦績を重ねていった。諸葛亮が連合を去った後も実働部隊の重鎮として重きを無し「前衛には王平と句扶、後衛には張翼と廖化がいる」と評されていた。
その実績は王平に次ぐとされたが、派手な活躍には恵まれず、本人も悪目立ちすることを嫌ったためか、特筆すべきエピソードは残されていない。陳寿もガチで存在を忘れかけていたらしく、「学園三国志」本稿上納前の最終チェック時に句扶の記述がないことに気づいて、慌てて王平の項目にオマケとして概要を書き足したという。


-史実・演義等-

句扶 生没年未詳
巴西郡漢昌の人。「華陽国志」の記述によれば字は孝興といい、句氏は漢昌県の名門氏族であったという。
その人物は忠勇にして、寛容で温厚な人柄であったという。同郷の王平とともに劉禅の時代に活躍し、しばしば戦功を立て、官位は左将軍(あるいは右将軍ともされる)まで昇り、宕渠侯に封ぜられた。その功績に対する評価も王平に次ぐものであり、また当時蜀の名将たちを指す言葉で「前に王平・句扶あり、後に張翼・廖化あり」と讃えられた。


-狐野郎が曰く-

蜀書では人材不足ゆえか、明らかに立伝されるまでもないような学者風情程度の連中が立伝されている一方、事績があまりにも少なすぎて、それなりの地位にいた人物もほんの数行しか触れられていないというケースもままある。句扶もそのひとりであり、左将軍にまで昇進して侯に封じられてすらいるのに、ほとんど存在が知られていないというありさまになっている。実際「季漢輔臣賛」ですら触れられていないし、ガチで陳寿すらもがこの人の存在忘れてたんじゃないのかと思うくらいだ。
ちなみに演義では第一次北伐の出陣前、参加する将軍の名を諸葛亮が読み上げるシーンがあるが、そこで一応名前だけは登場していたりする。ただそれだけでしかない存在なのに、王平や張翼らと同列扱いだったという理由だけで句扶を取り上げてくる学三って本当にクレイジーだと思う(賛辞)。