解説 李儒


-学三設定-

董卓の側に侍る専属のメイド。学園で董卓の傍らにある時も常に正統派のメイド服(エプロンドレス)を身に着けているが、本人にしてみればコスプレの意図はないらしい。
その性格は冷静かつ冷酷、気まぐれな主人にまるで機械のように従っており、感情にも乏しいため無機質な印象を受ける。董卓に関わるすべての事象は一度彼女を介さないと動かないといわれ、ある意味では彼女が董卓軍団内の本当の意味での権力者であるともいえる。とはいえ、彼女自身は権力欲だの顕示欲だのを持たず、あくまで董卓のサポート役として忠実に働いた。噂話に過ぎないことであるが、会長位を追いやった劉辨を再起不能にして学園から追いやられた裏でも暗躍していたとすら言われる。
メイドとして、側近として、懐刀として完璧なまでに欠点がなく、参謀として極めて優秀であった。また一説にはガン・カタの達人だったともいう。何事も淡々と無表情にこなす彼女であるが、同じく董卓の筆頭側近であった牛輔からは疎まれており、また呂布と曹操に対しては、明確に嫌悪の感情を示した。
董卓が力によって押さえつけている軍団を、彼女は裏から巧みに掣肘し、何進と十常侍たちの権力争いのギリギリの所に董卓軍団を控えさせ、終いには綱渡りのような董卓の覇道を成就させるも、一夜にして学園の主となった董卓の増長を止めることができなかった。あるいは彼女の「機能」には「権力(人気)を保つ」という項目がなかったのかもしれない。
後に董卓が政変によって呂布に討たれた時、彼女もともに学園を追放されたことになっているが、一説にはそのあと生徒会の実権を握った李傕のサポートに回ったとも、あるいは政変以前に董卓の勘気をこうむって学園を離れていたとも言われる。


-史実・演義等-

李儒 生没年未詳
字は文優、馮翊郡郃陽の人。
演義における董卓の参謀として知られるが、実際はその郃陽県で、黄巾の乱による民衆の武装蜂起の鎮圧の後に県役所へ招かれた名士の一人であった。この直後に当地の善政を讃え、それに関った名士たちの名が刻まれた碑(曹全碑)が立てられたが、その筆頭に李儒の名があったという。余談であるが、後漢書や三国志正史などでは不明であった彼の字や出身地も曹全碑に記述がある。
李儒はやがて召し出され朝臣となり、初平元(一九〇)年、董卓が入朝して少帝劉辨を廃位させると、李儒はその側近となった。間もなく劉弁に服毒自殺を強要し、それを拒絶した劉弁に無理やり毒薬を飲ませて殺したともされる。演義では董卓に古くから使える参謀として描かれているが、正史によれば李儒が董卓の幕府に仕えたのは劉辨廃位の前後であるとされる。
董卓が政変によって殺されると、そのあと政治の実権を握った李傕に従った。李傕は李儒を推挙したが、帝劉協(献帝)腹違いの兄を死に追いやった李儒を激しく非難し、処罰しようとしたものの、李傕は「あの件は董卓の指令であって李儒の責任ではない」ととりなしている。正史ではこの後の事跡ははっきりしないが、演義では董卓が殺害される際ともに殺されている。


-狐野郎が曰く-

演義では董卓の軍師的な存在として、董卓とともに登場している李儒であるのだが、史実においてはもともと漢王朝に仕えていた名士の一人である。多くの名士に嫌われた董卓であるが、大学者蔡邕共々董卓につき従った数少ない名士であり、廃帝劉辨の殺害実行犯としても名を残すことになった。仕えた経緯は違えども、演義でも史実でもやっていることに大きな差はないようだ。後年李傕がそうフォローしたこと、加えて退位させられたとはいえ皇帝になっていたものを殺害するということはやはりとんでもないことであり、それ以前に郡の治績において多大な功績があった名士であろうと、悪逆の佞臣としての汚名は不可避であったといえよう。それでも賈充ほどボロクソに言われてないのが不思議なところだが。
学三では公式設定(?)そのものが二次創作のオンパレードと言ってよく、メイドはメイドでも「月姫」の翡翠、あるいは「東方紅魔郷」の十六夜咲夜とかあの類がモチーフなんだろうか。与えられた職務を無感情に淡々とこなし、時に力づくで邪魔者を排除してのける冷徹なる参謀、と原作(正史どころか演義も含めて)とはかけ離れまくってる。挙句になんか直接戦闘能力も高いらしいし。ところでガン・カタってよくわからんのだけど忍殺のピストルカラテと一体なにが違うんだろうな。