解説 董卓


-学三設定-

その暴虐ぶりにおいては学園史上最悪とも言われる、学園史における暴君の代名詞的存在。
涼州地区の侠客一派の総領娘であり、呂布ほどではないが、やはり女子高生としてはありえないほどの堂々とした体躯の持ち主で、武芸にも優れ、大の大人でも梃子摺るような重さの刀を風車のようにぶん回せるほどの怪力の持ち主であった。しかし意外ともいえるほど少女趣味で、180センチを越える長身に、100キロ近い筋骨隆々の図体で、良家のお嬢様が着る様な派手かつ可憐な衣装をまとうというなんとも不気味な存在であった。一方で涼州校区の顔役としても知られ、近接する西羌高校の荒くれたちにも顔が利き、その気風の良さから裏番として慕われていた。このため早くから涼州地区の治安維持の為実働部隊を預かるなど重用されるも、その行動は多くの軋轢を生み、また本人の斑っ気もあって態度も不真面目で、度々罪に問われたり問題行動も多かった。
それでも并州校区総代の地位を手にするまでになった董卓は蓄えた戦力を巧みに温存し、「十常侍」と名士層の軋轢が臨界点を迎えて中枢部が大混乱に陥ると、その機に乗じて生徒会中枢部へ乗り込むと覇権を握るため行動を起こす。自分の子飼いの部下達を使っての恐喝的な支配と、清流会を抱き込んで懐柔するなどの巧みな政略を使い分けて着実に蒼天生徒会の支配を進めたが、結局董卓の急進的な支配体制を嫌った袁紹らが暴発し、学園を真っ二つに割る大戦争を巻き起こしてしまう。結局この結末は双方痛み分けに終わったが、董卓は戦略的撤退と称して洛陽棟やその周辺を徹底的に破壊し、これまで抱き込んでいたはずの清流会名士も片っ端から処断して廻るなど悪逆非道の暴君と化した。
やがて董卓一派から生徒会の主導権を奪取することを目論んでいた王允が、呂布を唆して董卓を騙し討ちにし、クーデターを成功させるも董卓一派残党の逆襲にあって生徒会執行部周辺はしばらくの間狂乱の坩堝と化した。因みに董卓やその姉妹、親戚関連の少女達は放校処分となり、西羌高校へ強制転校となったが、董卓は権力争いに懲りたのか、はたまた清流会名士達が陰湿な権力争いを繰り広げるのを目の当たりにしたためか、元の気風のいい性格を取り戻すと共に大人しく卒業までを西羌で過ごしたという。


-史実・演義等-

董卓 一三九?~一九二
字は仲穎、隴西郡臨洮県の人。類稀な武勇の持ち主であり、腕力に優れ、騎乗したまま左右に弓を射ることの出来る技術を持っていたとされる。
若い頃は侠客を気取り、羌族のいる地域を巡り歩いて、地域の顔役全てと友誼を結んだ。彼らが隴西の地へ董卓を訪ねてくると、董卓は自分の所有する耕牛を殺して彼らに振る舞いもてなしたため、彼らも返礼として家畜類を集めて董卓の元へ送るなど親密な関係にあった。郡役所に取り立てられて盗賊を取り締まるようになると、東胡の軍団が押し寄せ地域から民をさらうなどしたため、董卓は命じられて騎兵を率いて胡の軍を散々に打ち破ったが、この功績により司徒の袁隗(袁紹の叔父にあたる)から招聘され属官となった。
官位に就いた董卓は、精強な軍を率いて辺境地域で匈奴や羌族との戦いに明け暮れて順調に出世を重ねた。受けた恩賞を惜しげもなく分け与える気前の良さで部下の心をよくつかんでいたが、黄巾賊の討伐などに不手際があったとして度々免官させられている。とはいえ董卓の持つ武力と土地勘は度々必要とされ、韓遂が并州で反乱を起こすと主要な将軍として平定戦に参加し、五個師団まで壊滅する大敗北を喫するも董卓の軍のみは無傷に近い状態で撤退し、召し返されて前将軍・并州牧にまで昇進した。この時、討伐軍の参謀であった孫堅が董卓の職務怠慢をとり挙げて処刑するよう、討伐軍の総大将であった司空の張温に進言したが聞き入れられず、また并州牧に任命される際に董卓の軍団を召し上げようとしたが、董卓は言葉巧みに言い逃れしてその軍団を保持したまま并州に赴いている。
間もなく大将軍何進は宦官勢力に対抗するべく董卓を招聘するも、董卓がそれに応じる前に何進が暗殺され、それを口実に袁紹が宦官の誅殺を名目に兵をあげ宮中が混乱すると、事前に召集命令を受けていた董卓は好機と見て任地より南下、宦官に連れられていた少帝を保護して入朝した。董卓は三千余の兵を率いてきたのみだが、夜中にその一部を洛陽城外に出して、翌日には并州からの増援と嘯いて入城させて大軍勢に見せかけたという。こうして時間稼ぎをしている一方で、董卓は何進の率いていた軍勢や、自分に反抗する丁原を殺して得たその軍勢を自軍に吸収して権力を強めていった。呂布と父子の契りを結んだのもその頃の話である。
権力固めをしたい董卓は、はじめ後漢朝廷に仕える名士たちを任用していたが、董卓が勝手に帝位のすげ替えを行ったりしたことで諸侯の反感を買い、任用した側近達に背信を受けた。董卓は陰謀に関った者達をことごとく処刑し、諸侯の連合軍を迎え撃ったが、やがて洛陽を捨て無理やりに長安遷都を強行、その際に歴代皇帝の陵墓を暴いて副葬品の財宝を接収したり、あるいは洛陽中の富豪の家を略奪して多額の金品を得た上、洛陽の都を焼け野原へと変えた。
遷都後の董卓はその行動に暴虐の限りを極め、気に食わない者は高官といえど片っ端から残酷な方法で処刑して回り、あるいは貨幣を鋳潰して粗悪な貨幣を流通させようとしたことから凄まじいインフレを引き起こすなど社会混乱を招いた。董卓は政変によって権力の座を追われることを警戒し、一族の者は物心つかぬ赤子に至るまでが列侯となって要職を独占し、さらには本拠である雍州の郿城に三十年分にもなる食料を備蓄するなどして備えた。
まさしく数年の間に栄華と暴虐を極めた董卓であったが、一九二年五月二十二日(旧暦では四月二十三日)、皇帝の病気平癒の式典に参内するよう詔勅を受け、暗殺計画を目論んでいた王允、呂布らの手によって殺害された。一説にこのとき董卓は五十四歳だっととも言われる。
董卓が殺されると、その元で栄華を極めていた董一族は老幼の区別なく皆殺しにされ、その死体は市場の一角に晒され燃やされた。董卓はかなりの肥満体だったらしく、このとき見張りの兵士が戯れに、灯心を董卓の死体のへそに刺して火をつけてみたところ、その火は何日も燃え続けたと言われる。


-狐野郎が曰く-

中国史上その王朝と王朝の端境期には暴政を敷くなどして世情を混乱させる輩が一人二人出てくるものだが(五胡十六国時代はそれどころでなかったって?まあそれは置いておこう)、代表的な暴君として董卓の名は必ず挙がってくることだろう。その悪逆非道っぷりは演義より正史の記述の方がひどいと専らの評で、あまりにも自由奔放に振る舞い過ぎ、最終的には暴走した感すらある董卓だが、それでも当初は名士層を重んじて新体制を作ろうとした意図がその行動からうかがえる。董卓をそれでも擁護するのであれば、名士層が辺境の顔役に過ぎぬ董卓の台頭を一方的に毛嫌いしたことが、後の董卓の暴走を招いたというところだろうか。
そんな董卓も「蒼天航路」においてはその魔王ぶりを当初から発揮しつつも、独自の価値観に基づいて振る舞う「王者」としての面を持つキャラクターに昇華されており、ただの傍若無人な暴君としての董卓像とはまた違った董卓像が描かれている。その行動理念はある意味善悪を超越してしまっており、「魔王もまた王たる一つの姿である」ということを見事に体現している。
さて学三董卓はというと、その外見はどういうわけか「蒼天航路」の董卓をベースにしている為か筋骨隆々の大女、なのに何故か少女趣味というとんでもない「怪物」に成り果てている。設定では口調までお嬢様口調らしいのだが、人物解説にもわざわざ書かれてしまっている程度には不気味にすぎる。張角の「天使の声」にジャイアンソングで対抗、しかもその魔性の歌声を相殺してのける荒業を披露するSSもあったはずだが、そんな面も含めて語るに困るキャラである。というかそもそもデザインがデザインだけにどう描いてもしっくりこないため、いっそ大幅にデザインをいじくって「恋姫†無双」の月(董卓)や「三国志大戦」の董白(孫娘、しかもこの名前も正史董卓伝に記述がある)のような正統派美少女に描いてしまおうかかなり悩んだ。だがまあ、この味のあるデザインを潰してしまうのも忍びなかったので、お嬢様ぶってる感じのイメージだけを切った次第である。