解説 黄権
-学三設定-
元々益州校区巴西棟の役員の一人だったが、才能があって校区本部の運営に関わることになった少女。
その折、劉備を校区に迎えるという発議が起こると、彼女は劉備の器量を危険視して諫止したが聞き入れられずに終わった。この際、劉璋の服に取りすがってまで止めようとしたが、振り払われた際に壁に顔をぶつけ前歯を折ってしまうという怪我を負ってしまう。劉璋も流石に後ろめたかったのか、一応は彼女の顔を立てて広漢棟長に任命して有事に備えさせた。
顔に怪我を負ってしまうという屈辱を受けながらも、彼女は最後まで劉璋に義理を立て、劉備の益州制圧の際も最後まで広漢を堅守。やがて本部の劉璋が降伏すると、彼女もようやく劉備に降伏した。彼女の立派な振る舞いは劉備ら帰宅部連合からも高く評価され、また軍才も優れていたことから漢中制圧の際は法正の補佐として軍略立案に関っていた。この際は法正の活躍ばかり目経つ印象もあるが、実際はその軍略の多くは黄権の立案がベースになっていたとも言われる。
後に益州の宰領を補佐するまでになった彼女だが、関羽の仇討ちに燃える劉備を諌めきれず、結局一軍を率いてその親征に加わることとなった。しかし陸遜のために盛大に返り討ちにあった連合の軍は絵に描いたような総敗北を喫し、帰り道を失った黄権は長湖部へ降伏するのを良しとせず、かといって玉砕を部隊員に強制したくもなかったので、やむなく蒼天会へと帰順する。
曹丕は彼女の人物を高く評価していたが、様々な嫌がらせをしてからかおうとしたこともしばしばだった。しかしその都度彼女は毅然とした態度で振る舞い、曹丕のみならず司馬懿などの知識人からも一目置かれる存在となる。彼女は最後まで劉備への忠誠を捨てず、劉備は残された彼女の妹である黄崇を代わりに処罰するべきだという声に対して「あれは公衡がうちを裏切ったんやない、うちがあの娘を裏切ったんや」と述べ、その罪を一切不問としている。
黄崇はその意気に応え、やがて連合降伏の際も最後まで鄧艾を向こうに回して勇戦し、綿竹で玉砕している。
-史実・演義等-
黄権 ?~二四〇
字は公衡、巴西郡閬中県の人。
若い頃に郡吏となり、やがて州牧の劉璋に召しだされて主簿に任命された。丁度その頃、別駕の張松が「劉備を迎え入れて漢中の張魯に対抗すべし」と主張し、その建議がなされていたわけだが、黄権は劉璋に「左将軍(劉備)は人望と勇名があり、一武将として扱えばその待遇に満足させることはできません。かといって賓客として遇すれば一国に二人の君主がいるような状態になります。(張魯に対しては)国境を固め守備に徹し、時流を待つべきです」と諌めたがこの意見は退けられ、劉璋は黄権を広漢郡太守として外地に送り出してしまった。演義ではこの際、劉璋を引きとめようとその袖にすがったが、振り払われた勢いで壁に顔をぶつけ前歯を折ってしまうという目に遭わされている。
結局劉備は黄権の読み通り益州を瞬く間に制圧したが、多くの郡県が降伏してもなお、黄権は劉璋が降伏するまで広漢の城を閉ざして固守した。劉璋が降伏したという知らせを聞くとようやく降伏して劉備の元へ出頭し、劉備は彼を偏将軍に任じた。漢中の張魯が曹操に打ち破られ巴中に逃げ込んでくると、黄権は「漢中を失うのは三巴(巴郡、巴東郡、巴西郡)を失うに等しく、それは益州にとっては手足を失うようなものです」と劉備に訴え、劉備はその言葉を受けて黄権を護軍に任命し、巴中に逃亡してきた張魯を迎え入れようとするが、すんでのところで張魯は漢中に引き返して曹操に降伏してしまった。とはいえ、この際に黄権が立てた策はのちに漢中を奪取する戦略の大元になったと黄権伝にある。
劉備が漢中王となると、黄権は治中従事に昇進する。劉備が帝位に就き、孫呉討伐の兵を動かそうとした際にはその軍略を諌め「私を先鋒として相手の戦力を図り、陛下は後詰めとなられますように」と進言するも聞き入れられず、鎮北将軍に任じられて魏に対する備えとされた。ところが劉備が夷陵で大敗北を喫してしまうと、黄権の軍は撤退ルートを失って孤立してしまい、孫呉に降伏するを良しとせずやむなく魏の曹丕に降伏した。
劉備が白帝に逃れた後、官吏が黄権の罪を論ってその家族を逮捕したいと申し出たが、劉備は彼が自分の東征に際して述べた軍略を退け敗北したことを思い「黄権がわしを裏切ったのではない、わしが黄権を裏切ったのだ」と述べ、蜀の地に残された黄権の家族はこれまでどおりの待遇を与えられた。また曹丕は「君が逆臣(劉備の臣)であることを辞めて善なる臣(魏の臣)に立ち返ったのは、陳平や韓信に倣っての事か」と問うと、黄権は「私は劉備様から過分の待遇を受け、呉に降るはわけにいかず、帰国するにも道はなく、私のような敗軍の将は命を拾うだけでも幸運なのです。どうして古人に倣うことなどできましょうか」と答えた。また黄権の妻子が誅殺されたと伝えた者がいたが、「漢魏春秋」によれば曹丕はすぐ喪を発するように黄権へ促したが、黄権は「私と劉備、諸葛亮とは真心を持って信頼し合った仲で、私が(魏に身を寄せた)真意を分かってくれるはずです。情報もはっきりとしてはおりませんので、どうか後の情報を待たせてください」と訴えたという。また、劉備が亡くなると魏朝廷は祝賀したが彼はそれに加わることはなかった。
このようなことから曹丕からは非常に高く評価され最初は鎮西将軍・育陽侯となり、さらには益州刺吏、河南尹を加官され、二三九年には車騎将軍にまで昇進した。司馬懿も諸葛亮へ宛てた手紙に「黄権は快男児であります。常にあなたの話題を出し、称賛しています」と記している。
二四〇年逝去。蜀に残っていた子の黄崇は、のちに尚書郎まで昇進し、蜀滅亡の際は勇戦したものの緜竹の地で玉砕して果てた。
-狐野郎が曰く-
蜀漢が誇るべき忠臣の一人と言っていいだろう。演義でも正史でも最後まで劉璋のために尽くそうとしたが力及ばず、そして夷陵の敗戦の後は劉備を害した呉に降るを良しとせず、止む無く魏へと降ったが、これをもって黄権を不忠というのはあまりに的外れだ。劉備の「自分が黄権を裏切ったのだ」という言葉が、それを何よりもよく物語ってるといえよう。とはいえ、後世では黄権をヨイショするあまりに「劉備の待遇は不十分すぎる」なんて言った史家もいたらしいのは、それはそれでなんかおかしいとは思うが。魏に降ってからは特別何かしていたわけでもなく、ましてさして名門の出でもないはずの彼が車騎将軍にまで叙任されているので、それだけ優れた能力を有していたことは確かであるのだが。「蒼天航路」で漢中攻略の立役者として法正の名前がメジャーになりつつあるが、その裏で活躍していた黄権の存在にも、いずれはスポットライトが当たる日も来るのだろうか。
演義の「前歯折られちゃった」事件は演義のオリジナルであるが、学三でもやはり前歯案件は避けられなかったようだ。劉璋の性格からすればあとで後悔はしたかも知れないが、もしかしたら実際は法正あたりが突き飛ばしてそうなったのを劉璋のせいにされた、とかいうのもありそうではある。曹丕の事なので、前歯を失っていることを知ってあの手この手で黄権を笑わせようとしたとかそんなエピソードがあってもおかしくない気はする。