解説 鄧芝


-学三設定-

帰宅部連合後期の名将の一人。本願は劉備がいたこともあった新野棟であるが、高等部編入前に荊州校区から益州校区に移り、後に巴棟で会計業務を任されていた時に劉備に見出され、広漢棟長に抜擢された。
長湖部との回廊決戦後、修好回復の使者として赴いた際、臆することなくその役目をよく果たした。孫権はいたく彼女を気に入ったらしく、時々手紙や贈り物をしていたといい、以後も度々長湖部との連絡役を務めた。主将としても優れており、最初期の北伐において趙雲の補佐役を務め、文武両道の優秀な人材として累進し、やがて諸葛亮を欠いた後の帰宅部連合最高幹部の一人となる。感情を表に出すタイプであったため、人付き合いはヘタで一方で人を人と思わない節も見られたが、姜維に対してはその才能をよく評価していたという。
卒業を控えた彼女はある時、いたずら心を抑えられず、趣味で集めていたエアガンを持ち出して野生の子サルを撃ってしまった。痛がる子サルを母親サルが介抱しているのを見た彼女は不意にエアガンを湖水に放り捨て、二度とそれを手に取ることがなかった。彼女の引退はそれから間もなくのことである。


-史実・演義等-

鄧芝 ?~二五一
字は伯苗、義陽郡新野県の人。
漢の司徒を務めた鄧禹の末裔であり、後漢末に蜀へ移り住んだが、知遇を受けるまでに到らなかった。その頃益州従事であった張裕が人相見を得意としていたことから会いに出かけると「君は七十を過ぎてから大将軍の位に就き、侯に封じられるだろう」と言われたという。その後巴西太守龐羲の元に身を寄せ、
劉備入蜀後に鄧芝は郫県の食料管理官になったが、劉備が郫県を訪れた際に彼と語り合って県令に抜擢し、広漢太守に出世した。太守として精錬かつ厳格な態度で治績をあげたのが評価され、やがて中央に招かれ尚書となった。
劉備が世を去ると、諸葛亮は孫権の動向を警戒し対応に苦慮する中、彼は諸葛亮を訪問して「主上(劉禅)はまだ幼く、速やかに大使を遣わして呉に友好の意を重ねて伝えるべきと存じます」と進言した。諸葛亮はこの言葉を受け「私もそのことを懸念していたが、適任者が見つからなかった。今日初めてその人が見つかった」と、鄧芝を呉への使者として送る事に決めた。孫権は初め鄧芝をの会見を渋ったが、鄧芝は上奏してなんとか会見までこぎつけると、二国の友好関係を結ぶ利害を説いて孫権を納得させ、完全な友好関係を取り戻すことに成功した。孫権は鄧芝の人物を非常に高く評価し「これまでの使者はいずれも一長一短あったが、今回の和睦を成立させたのはひとえに鄧芝のおかげである」と述べたという。演義ではこの際、孫権は鄧芝(というよりも蜀の使者)を威嚇し門前払いしようとして、階の下に煮えたぎる油をたたえた(処刑用の)大鍋を用意し、殿上に完全武装した兵士を並ばせたが、鄧芝は涼しい顔をして孫権の前へ進み利害を説くも、渋る孫権に業を煮やした鄧芝は、煮えたぎる油に身を投じようとしてその覚悟を示し、友好を結ばせたというシーンになっている。孫権は彼を気に入ったらしく、以後も鄧芝に対して度々安否を尋ねる手紙に贈物をつけて送ったという。
諸葛亮が漢中に駐屯すると、中監軍・揚武将軍に任じられた。諸葛亮が亡くなると前軍師・前将軍に昇進し、陽武亭侯に封ぜられると程なくして江州督になった。二四三年には任地にあって車騎将軍に叙任された。
二四八年、涪陵国で反乱が起こると、鄧芝は一軍を率いてそれを平定した。「華陽国志」によればこの遠征のとき、元々弩を撃つのが好きだった鄧芝は、偶々見かけた猿の親子連れに向けてそれを射かけ母猿を射たというエピソードがある。鄧芝は小猿が母猿の矢を抜いてその傷口を草でふさいでやるのを見ると「ああ、わしは生物の本性に背く行為をしてしまった。間もなくわしは死ぬであろう」と後悔し、弩を近くの川へと投げ捨てたという。
二五一年に死去。将軍として任にあり二十余年、賞罰は明確に下し兵を良く慰労した一方で、剛直な性格で感情をすぐ表に出したことから士人たちとの折り合いも悪く、姜維には一目置いていたが他人に敬意を払うことはあまりなかった。さらに衣食も支給に頼り、妻子は困窮を免れず、死後にはわずかな財産も残っていなかったという。


-狐野郎が曰く-

演義の印象が強いと外交官としての印象が強いが、最終的には将軍として蜀に仕えた人物である。孫権は殊の外彼を気に入っていたと見え、折に触れては手紙を送ったり贈物をしたりしているようだが、その割には車騎将軍という高位にありながら貧乏暮らしを家族に強いていたというのはどういうことなのだろう。概ねこういう人物はどこにでもいて、死後に様々な下賜品が送られているとか、もらった財貨は兵卒に分け与えていたとかいう話がセットでついて回るが何故か鄧芝伝にはそのような定番の記述がない。劉禅がボンクラ過ぎてそこまで考えが回っていなかったのか、マンネリを感じた陳寿が言及を避けたのかわかりかねるところだが、前者も年代的にありえないといえないのが怖いところだ。
諸葛亮死後の話ってほとんどされないこともあって、鄧芝以外にも王平、張嶷のように諸葛亮死後の蜀を牽引した将軍たちは意外に無個性の金太郎飴状態の扱いな感じであるが、彼らはよく言えば個性的、言ってしまえば無法者というか難物だらけな印象も否めない。孫呉の共謀奇矯さには及ばずともクセモノだらけなのは蜀も変わらないような気がする。どこぞの費褘みたいに、仕事速攻で終わらせて趣味の博打に興じていたなんて奴もいるしな。そういう意味では、演義で諸葛亮が司馬懿を取り逃がしたとき「将は皆小粒になってしまった」なんて言わせている羅貫中のブルシット野郎には蜀ファンも全身全霊の左ストレートを顔面にぶち込んでやる理由にはなるのではないか(過激派
学三鄧芝であるが実はこれといって特徴的なデザインではない。もうちょっとなんか個性的なパーツは付け加えられないかと思うけど特に思いつかないのでそのままである。