ー審配逢紀別伝 概要−
リンチに遭った逢紀は、周囲のとりなしで九死に一生を得たものの、全治1ヶ月の大怪我で入院する羽目になる。その際、いち早く病院へ搬送してくれたのが、彼女を心配してこっそり忍び込んでいた田豊であった。そのことを知った彼女は、今までの田豊に対する振る舞いを大いに恥じ、以後は田豊に対して敬服するようになった。
リタイアした審配の身柄は袁紹に引き渡されたが、丁度その傷が癒えた逢紀が審配に会いに来ると、ふたりは袁紹から再び階級章を与えられ、ふたりで研鑚を積むように命じられた。袁紹はふたりの才覚が底知れぬものを秘めていることに気がついており、将来自分にとって大いに有益になると確信し、学園にあるコネクションを使って階級章の新規取得者として二人を登録させたのである。
ふたりは既に引退して久しい顔良や田豊を訪ねて取るべき道を尋ね、考えた末に荊州学区に滞留していた劉備の元を訪れた。
ふたりは正体を隠して帰宅部連合の一般生徒として、折りしも行われていた諸葛亮の部員勧誘を受けて剣術同好会にもぐりこみ、その一員となった。マネージャーではなく純粋な同好会員となったのは、顔良から受け継いだ幻の技「振雷」完成のためであったという。
元々剣術の素養があった審配はもとより、頭脳系と思われた逢紀も体力と格闘センスにも優れた才覚を持っていたため、荊州学区に置ける大逃亡劇、赤壁島決戦、荊州学区南部棟攻略などでその頭角を顕した。
ふたりはあくまで袁氏の臣であることを貫き通し、帰宅部連合で重責に就かないという誓いを立てていた。しかし活躍を重ねるごとに、少しずつであるがその存在を知られるようになってしまう。困り果てた審配は、かつて袁紹配下時代に知り合っていた趙雲を訪ね、正体を明かして事情を説明した。
趙雲は思案の末諸葛亮に二人を引き合わせ、決して重く用いさせないこと、多くの戦いに参戦させることを約束させた。このとき、諸葛亮はふたりに「常に眼鏡をかけること」という条件と、「振雷」の研究資料を提出することを条件として示し、ふたりもそれに従った。
帰宅部連合が益州学区に落ち着くと、趙雲、諸葛亮らの協力を得て「振雷」の極意を見出した審配は、戦場で張コウとの再会を果たし、その一対一の激闘の末、「振雷」を完成させた。逢紀も審配に遅れる事二ヶ月で「振雷」をモノにしたが、その頃には武神・関羽のリタイアにより、帰宅部連合は混乱状態にあった。
ふたりは劉備の長湖部遠征に趙雲の代わりとして同行。審配は馬鞍山では煙で視界をふさがれる中、襲いくる長湖部員に対して、伝令用の発光弾数十発を一度に炸裂させて目くらましにするという荒業で劉備を救った。一方の逢紀は、襲い来る韓当、宋謙、凌統、潘璋の四将を向こうに回し、互角に立ち回るという、鬼神の如き武を示した。いずれも、公式記録として残ってはいない。
夷陵の戦場から生還したふたりは、劉備引退後も趙雲、そして魏延の副将として活躍する。
しかし木門道の撤退戦に際し、ふたりはかつてともに戦った張コウと、彼女が連れる費耀という少女を葬り去るため、魏延に別れを告げふたりとの最終決戦に望む。
費耀の正体は、公孫サンの寵臣であった関靖であり、彼女は袁紹や、それにまつわる総てを憎悪していた。審配は張コウを、逢紀は関靖を死闘の果てにそれぞれ撃破し、同時に彼女達の戦いも幕を閉じた。以後、卒業までの短い間を、ふたりは冀州学区で過ごした。
さらに秘話中の秘話であるが、陸胤の日記に拠れば長湖部員救出のために現れた蒼天学園OGとして趙雲、張遼、虞翻などとともにふたりの名も記されている。特に逢紀の戦いぶりは凄まじく、同行していた「蒼天会の突撃隊長」楽進を呆れさせるほどであったという。
大学卒業後、ふたりは袁財閥当主つきの秘書として迎えられ、袁紹の良きアドバイザーとして、袁紹からは絶対の信頼を得たという。