「…兼続兄さん」
あの「突発飲み会」のあと、結局潰れるまで飲んだポッパーズは会場となった藤野家の居間でそのまま眠っている。
次の日は学校のあるかごめたちもとっくに寝静まっているこの時間、六はひとり縁側で月を眺めながら、宴会の残り物を肴に一人で呑んでいた。
「さなか…お前、明日仕事だろう? まだ起きてていいのか?」
六はその声の主にさして驚いた様子も見せず、手酌したぐい飲みに口をつける。
彼が「与六」の号を名乗った七年前、「だったら今度から六兄って呼ぶことにするね。そっちのほうが呼びやすいし」と宣言して、以降はずっとそうだった。
それがあえて昔のように自分の名前を呼ぶということは、きっと何かあるのだろう、という考えもあった。
「…知ってるんでしょう…かごめちゃんの、真実(ほんとう)のこと」
六の手が一瞬止まる。
「…あたし…ずっと気になっていたんだ。
かごめちゃんは、身寄りと幼い頃の記憶がないだけの、普通の女の子のはずよね…?
…でも、最近あの子を見てると…まるで…」
かごめは優れた才覚を持つ詩人だった。
独特の視点を持ち、そこから紡ぎだされる詩の世界は確かに、それだけで惹きつけられる魅力があった。
紗苗もなんだかんだと理由をつけては、舞台スタッフに紛れ込んでそのステージを見ていることも多い。
その目から見ても、ステージ上で詩を詠うかごめの姿は、非常に魅力的だった。
だが…それが彼女の才能によるものばかりではないと、紗苗は気づいた。
人一倍鋭敏な感知能力を持つ紗苗は、そのかすかな気配を感じ取っていた。
始めは、それほど気になるほどではなかった。
元々かごめが魔法使いとしても十分に優れた資質を持っていると言えるくらい、高く上質な魔力の持ち主だったことは知っていた。
そうした者が言葉に魔力を込めれば、それは「言霊」となり、魔法は「言霊」によって発動する。
「言霊」の大本になるのは、まさしく「詩」なのだ。
しかしかごめの紡ぐ詩は、そこまでの領域にまで達してはいない…ハズだった。
紗苗が驚愕したのは…かごめの独演会を観ることが出来た、ある観客のレビュー。
曰く「文字通り詩にあわせて、まるで魂が体から引き剥がされるようだった」と。
無意識にそれだけのことが出来てしまうかごめのその力を、彼女は初めて“恐ろしい”と思った。
何故この少女にそんな力があるのか、というそのことを。
「…かごめが“人間”でないのであれば、どうだというんだ…?」
六の声に、僅かに厳しいトーンが混じる。
だが、紗苗はそれにたじろいだ様子はない。
「聞かれるまでもないわ。
かごめちゃんはかごめちゃん。
仮に元が悪性魔性であっても、あの娘があたしの…あたし達の大切な家族であることは変わらないわ…!」
「ならいいだろう」
その言葉に、ふっ、と笑う六。
「でも…だからこそ知りたいのよ…あの娘が本当は、何者であるのかを。
知っているんだよ…じいちゃんが死んだあの日、最後にじいちゃんが兄さんだけを部屋に呼んでいたことを…。
あたし、ほとんど聞き取れなかったけど…かごめちゃんのこと、話してたんでしょう…?
貴種の血…とかなんとか、そう言ってたよね…!?
どういうことなのよそれ…!
貴種って、どう考えても人間に当てはまる言葉じゃない…それは、魔性真祖の眷属に対して使われる言葉じゃないの…!」
感情を務めて押し殺そうとしている紗苗の言葉に、六は僅かに眉をひそめる。
「聞いて…いたんだな」
そのとき、六は初めて紗苗の方を振り向く。
真剣な、怒りとも悲しみともつかない感情を必死に押し止めようとする紗苗の表情。
彼女も彼女なりに、かごめに起こってる何らかの変化を感じ取り…あるいは、その先に何か途轍もないことが起ころうとしていることを予感していたのかも知れない。
その変化は、紗苗にとって、信じたくなかった孫次郎の言葉を確信に変えてしまうほどの事だったのだから。
六は紗苗を差し招き、隣へ座らせると、空いていたもうひとつのぐい飲みを差し出し、それに酒を注いだ。
しかし彼女は、それを手に持ったまま、口をつけようとしなかった。
「…ジイさんの言ったとおり、“その時”が来ているのかも知れないな」
残った酒を一息に飲み込み、空になったぐい飲みを傍らに置く六。
「…解った。お前やかごめにも、いずれ話してやらなきゃいけなかった話だ。
できるなら総てが終わってからのほうがよかったと思うが…恐らく、そんなことは言ってられんかも知れんしな」
そういって、六は静かに語り始めた。
「天使の羽詩」
第十話 カゴノトリ
「…素晴らしい力だ…」
漆黒の仮面紳士はその紅い瞳を大きく見開いた。
佐祐理は目を疑った。
目の前の少女は、確かにかごめの姿をしている。
だが、そこから感じられる力は、既に人間のそれではないどころか…それをはるかに凌駕する凄まじいまでの闇の魔力だった。
(どうして…これじゃあまるで)
佐祐理は信じたくなかった。
今のかごめは、この狂気染みた仮面の男とまるで同質の存在に感じられることを。
「藤野…おまえ…?」
修も信じられないといった表情で、その少女に声をかける。
姿を変えたその少女がゆっくりと、背後のふたりへ視線を送る。
その表情は、どこか寂しげで…苦しそうにも見えた。
「先生」
かごめが呟く。
「その木刀を…
…あと、さゆと一緒に出来る限り、遠くに離れていて…。
…あたし…この力を制御しながら、コイツからポエを取り返せる自信がないの…!」
その一言に、修の背筋が凍りつく。
百戦錬磨の喧嘩屋である彼をも居竦ませるほどの威圧感。
かごめの言葉には、それがあった。
修は恐る恐るかごめに木刀を手渡し…ゆっくりと、後方へと退いてゆく。
「ホウ…私が彼らをこのまま逃がすとお思いですか?」
「…やれるもんならやってみなよ」
普段修や佐祐理すらも聞いたことのないトーンのかごめの声。
その一言で、まるで周囲の気温が一気に下がったような…そんな圧迫感が二人を襲う。
「あたしはもう…あんたに飼われていた頃のあたしじゃない…!
…あんたがあたしから奪って言った総て…その落とし前をつけさせてもらうわ、ジズ!」
その怒号とともに、かごめの闇の魔力が一気にはじけた。
−…かつて藤野一族は、吉野の山深くにひっそりと暮らしていた一族だった。
今から千三百年ほど前、一人の禍神(まがつかみ)が、その里へと迷い込んできた。
彼は遠く外の国からやってきて、一族を滅ぼされ、安住の地を探してその地にたどり着いたという。
その禍神は…美しい銀の髪、紅玉の如き緋の瞳、いかなる闇よりも深い色の翼を持ち…しかし、彼はその力を捨てることを望んでいた。
里長の娘は、彼の願いを叶える為、長老達を説得しその秘術によって彼を無力な存在へ変えることが出来た。
彼は代わりに新しい術の知識、外の国の文化を里の者に教え…何時しか、彼もまた里の一員として、受け入れられるようになった。
彼は里長の娘と恋に落ち、やがて珠のような娘を授かった−
「ジズ…だと?
まさか…“狂気の傀儡師”ジズ=ヴェネツィアーニか…!?」
その名を聞いた途端、修の表情が強張る。
「…え?」
「ヨーロッパの伝説に名を残す偉大な人形師でありながら、狂気に落ち、死して真祖となった最強クラスの悪性魔性…
その“創作”には常に生娘を求め、自分を狩りに来た数多の魔性狩りを屠った最悪の魔性真祖だ。
…どうして、そんなヤツが」
わななくように応えるその表情は、これまで佐祐理が見たこともない修の表情だった。
この世界には、人ならざる者も多く棲んでいる。
そのうち、人や亜人とともに社会に溶け込み、ともに暮らす者を「良性魔性」、その社会から外れ、あくまで己の欲望に忠実に動き、その社会に害成す者を「悪性魔性」と呼ぶ。
そうした悪性魔性は時に強大なものが社会の存在を脅かすこともあり、そうした力のある悪性の魔性を駆逐することを生業とする者たちも生まれ、それを「魔性狩り」と称した。
魔性の中にも何段階かのランクがあり、その中で最上級とされるものは良性・悪性の区別なく「魔性真祖」と呼ばれるのである。
魔性真祖などという存在は、それこそ神にも等しい力を持っているとすら言われる。
その姿は一部の例外を除いては、それこそ伝説や寓話の中でしか語られず、ジズもまたそうした「伝説の真祖」の一人であった。
修は、若い頃の舎弟にそういう伝記に詳しいものが居たお陰で、そういうことにも知識が深かった。
実際、仲間を襲った悪性魔性を撃退した経験もある。だからそういうものももしかしたら居るだろう…くらいは思ってはいたが、まさかそこで現物を拝むことになろうとは夢にも思っていなかった。
というよりもむしろ、それが何故かごめを「所有物」などと言ったのか。
そして、かごめのジズに対する言動…それは、傍目からでも何か過去に相当な因縁があることは窺えるが…何故、これまである一点を除いて極普通の少女であったかごめにそんなものがあったのか…。
その疑問が修の脳裏をめまぐるしく駆け巡る。
「…私のことを知っている人間がいるとは驚きです…。
ならば、先ほどの見事な立ち回りに対する謝礼として、少し過去のことでもお話して差し上げましょうか…」
不敵に笑うジズ。
素人目には、両者の放つ魔力の大きさはほぼ互角のように見える。
互角の相手が目の前に居るにもかかわらず、その余裕は何処から来るのか…。
…だが、かごめは実際動けずにいた。
−娘は平和な村で、優しい両親と里の者に囲まれ、すくすくと育った。
しかし、娘が三ツになったある日のこと…それはやってきた。
己の欲望を満たすため、その父たる禍神の一族を滅ぼした、別の禍神が現れたからだ。
ヤツは強大な力を持ち、命なき巨大な人形を幾つも使役して、藤野の里を滅ぼそうとした。
力を失った父親に対抗する術はなく、藤野の里の者は仲間を守るため、頑としてこれに抵抗した。
しかし…その禍神の力はあまりにも強大過ぎた。
禍神は、その娘を自分の欲望を満たす道具として欲し、奪い取ろうとしたが…。
母親は最後の力を振り絞り、秘術をもって時の果てへ通じる穴を開き、その娘を逃したという…−
「…先ずは前置き。
お前も聞いたことがあるだろう…藤野一族に起こった悲劇の話だ」
「…それに何の関係があるのよ」
六は飲み干した自身の杯を傍らに置く。
「…ジイさんは、その村にいたほうの禍神…娘の父親に会っているといったんだ。
場所は幻想界…今現在“メルヘン王国”と呼ばれる世界の北の果て…暗黒の黒き森に佇む城で眠りについていた吸血鬼真祖。
それがその正体だ。
ジイさんが丁度、今の俺くらいのときだといっていたな。今から六十年ほど前の話ということになるか」
「え…」
驚きの表情を隠せない紗苗。
「別に驚くほどのことでもねーだろ。
魔性の類には西洋の妖精女王(ティターニア)のように、寿命が永劫のように長い種族だっている。
真祖クラスになれば、それこそ何千年存在できるのかいまだに見当もつかねぇ」
再び自身の杯に酒を注ぎ足す六。
それを口にし、一息つく。
しかし、紗苗の驚きはもっと別の場所にある。
紗苗もその真祖の話は知っている。
かつて安住の地を求めるため、様々な真祖クラスの悪性魔性が群雄割拠していたメルヘン王国の黒森に乗り込み、僅か二週間あまりでその地にはびこる総ての悪性魔性を滅ぼした伝説の吸血鬼真祖。
それは、何の気紛れか今、同じ芸能事務所に所属してともに仕事をしているということも彼女は知っている。
だからこその驚きだった。
「…あの雨の日…俺もそこに居合わせていたんだが…。
ジイさんがかごめの手を引いて歩き出した時…
これも運命か、と呟いたんだ。
俺には最初その意味が解らなかったが…」
悲しげな表情の六の顔が、杯の中で揺れていた。
「…確かにその娘の秘術は成功したかに見えました。
ですが…いくら強い力を持っていても、所詮は人間のやることです。
私はその術を捻じ曲げ、己の世界へと繋げ…ようやく目的のものを手に入れた」
その薄笑みで、ジズの口元は大きくつりあがる。
「私は…これまで早急に“素材”から心を取り除くことばかり考えていましたが…
そうすればどうしても余分なモノが残ってしまい美しくないことに気づいた」
そうやって己の歪んだ思想を語る仮面の男に、不快感を露わにしたのはかごめや修ばかりではなかった。
佐祐理は最初、その意味が理解できなかった。
…いや、「理解したくなかった」というのが本音だろう。
「心を取り除く」とは…それが人ではなくなってしまう、ということ。
ジズが“人間”を“人形”に変えるために、その人の心を無理やり壊しているということを意味している…。
…つまり、その“素材”にされた人間に、精神的な拷問を何食わぬ顔で平然と実行できる存在であることに、彼女も気づいたのだ。
「だから私は、折角手に入れたこの“上質な素材”を、ゆっくり時間をかけて処理することとしたのです」
そして、過去にそれをかごめに実行した、ということも。
「…その真祖は長い時の果てにようやく、その娘が連れ去られた先を探し出すことが出来た。
時の流れが、ソイツの旅してきた時間と全く別の次元にあったから…連れ去られた娘には二年の歳月が流れていた。
…ギリギリのタイミングだったんだろう。
娘は泣くことも笑うこともなく、虚ろな目を父親に向けていた。
父親は連れていた仲間とともに、死闘の末ようやく娘を安全な場所へ逃がすことが出来た…かつてその母親が使役した藤野の秘術で。
それほどまでに、その存在は強大な力を持っていたんだ。
魔性真祖クラス三人がかりで、ようやくその隙を見出せるかどうかというくらいのな…。
そのとき初めて…娘は火のついたように泣き出したという話だ」
紗苗は目を見開く。
「まさか…じゃあその娘が」
驚愕の表情のまま呟く紗苗。
「ああ。
藤野一族の伝承に伝わる最強の巫女・藤野妙を母に。
かつて“闇の森の貴公子”の名で恐れられた吸血鬼真祖・ユーリ=レイクウッドを父に。
世が世であれば、藤野一族の歴史に大きく名を残すだろう娘…
…それが、今俺達の家族としてともに暮らす…藤野かごめの本当の姿だ」
(かごめさんが…この時代の存在じゃない…?)
言葉を聴き終えてもなお、佐祐理には俄かに信じ難い話だった。
確かに彼女には、聞く限り五歳より前の記憶がない。
時折ぼんやりと何かを眺めているその横顔は、父親似と言えなくもなかったろうが…それでも、実際にあったユーリのその雰囲気とはどう考えても結びつきそうにない。
いや、それ以上に…このことを認めてしまえば、ジズのような存在がかごめを所有物として正当な権利を振りかざしていることを認めてしまうような気がして、信じたくはなかったというほうが正解なのかも知れない。
だが…。
「…黙れ…!」
不快感と憎悪に染まるかごめの表情が、それを肯定してしまっている。
恐らくは、彼女の抜け落ちていた部分の記憶も、完全に戻っているのだろう。
その表情は…まるで幼かった時体験した根源の恐怖を、無理やり負の感情で押さえつけようとしているように見えた。
「フフ…いい表情ですね…
それももうじき観れなくなるのは残念ですが…精々、今のうちに楽しませていただきましょう」
ジズはその手にゆっくり魔力をかき集める。
すると…瘴気に包まれているポエットの首筋へ、にじり寄るように影が差してゆく。
「…ッ!」
怒りで巧く言葉にならない、そんな息をひとつつき、次の瞬間には木刀を構えて一瞬で間合いを詰めるかごめ。
かごめは基本的に部活にも所属しておらず、習い事をしているような暇はない。
しかし幼い頃から、時折帰ってくる六から柳生新陰流の剣術を仕込まれており、元々身体能力にも優れていたため、当人がその気になれば剣道でも十分段位が取れるほどの腕前の持ち主であった。
それが本来人間としてありえない力を発現させているわけだから、素人目から見れば魔性真祖相手にも「なんとかなる」と錯覚してしまうだろう。
だが。
(だめ…!このふたりが戦ったら、かごめさんは…!)
佐祐理は直感してしまった。
恐らく、今のかごめでは…ジズには敵わないという事を。
それがどうしてなのか、彼女にも解らなかった。
そのとき脳裏を過ぎった一瞬の予感…しかしそれは、あまりにもリアル過ぎる、かごめの無残な姿であった。
「かごめさんッ!戦っちゃだめーッ!」
力の限り叫ぶ佐祐理。
しかしその声は、既にかごめには届いていなかった。
高速の踏み込みから放たれた、真一文字を描く剣の軌道が何もない空間を走る。
「…え…!?」
その視線の先には、ジズの姿は愚か、捕われたはずのポエットの姿すらない。
「藤野、上だぁぁッ!」
修の声に反応して振り向いた時には既に手遅れだった。
無数の黒い魔の糸が、その四肢を絡め取っていた。
「くっ…ああっ!」
その手はすぐに彼女のコントロールを離れ、握る力を失った手からその木刀が滑り落ちた。
「フフフ…惜しかったですねぇ…
如何に強力な真祖の血を継いでいようとも、覚醒したばかりで巧くそのコントロールが利かないのであれば、その隙を突くことなど造作もない」
勝ち誇ったように哄笑するジズ。
まるで蜘蛛が捕われた蝶を見るかのごとく、己が放った糸の中でもがくかごめを見ながら、ジズは笑に狂気の色を強める。
「ふむ…折角ですのでひとつ余興を楽しみましょうか…
この天使の娘を処理すればひと息ですが…それでは実につまらなそうだ」
「な…にを…」
苦悶の表情を浮かべながら、それでもなお気丈にかごめはジズを睨みつける。
「あなたは吸血鬼真祖の血を継いでいる。
覚醒したてとなれば、まだ従僕など存在しないのでしょう…?」
狂気の瞳が、かごめの背後へと移される。
その視線の先に見えているもの…そしてその悪魔の如き目論見にかごめも気づき、戦慄した。
「あなたがあなたでなくなってしまう前に、私から最高のプレゼントを差し上げましょうか…
きっと気に入っていただけましょう…?
…何しろ、あなたにとってまた大切な存在であるようですからねぇ…?」
「や…やめっ…!」
そこでかごめの言葉が途切れた。
「拙い…熊野、逃げ−」
修がそれに気づいた時、その身体は鳥居の辺りまで吹き飛ばされ、そこへ強かにたたきつけられてしまう。
佐祐理が悲鳴を上げるよりも早く、無数の魔糸がその全身を絡めとり、その主のほうへと引きずり寄せられていた。
言葉を失った佐祐理の瞳が最期に見たのは、虚ろなままの目をしたかごめの顔だった。
次の瞬間、その牙は彼女の首筋に深く食い込み…佐祐理は意識を失った。
そのとき、瘴気の結界に紫電が走る。
「む…!」
ジズは不快をあらわにしてそれを一瞥する。
姿を現したのはユーリとスマイル。
かつてジズに捕われていたかごめを救い出した…ジズにとってもっとも許されざる存在。
それは彼らにとっても同じことであった。
「チッ…遅かったみたいだねぇ…!」
自分たちが完全に出遅れた口惜しさに、スマイルは普段の彼のイメージにはない不快な表情を満面にあらわし歯噛みする。
その瞳に写る光景は、彼らにとっても予想以上に凄惨な有様だった。
変わり果てたかごめの姿。
その友たる者が、かごめ自身によって傷つけられている光景。
そして、力なく宙に捕われた天使の少女。
「…貴様…!」
己を知る者たちが悉く狂気に汚されていくのを目の当たりにし、ユーリの表情は静かに、怒りの色を強めていく。
「フフフ…何方かと思えば…」
既に己の目的をほぼ完遂しつつあるジズは、勝ち誇ったような冷笑を闖入者の二名に送る。
「ジズ…貴様だけは…貴様だけは絶対に許さんッ!」
漆黒の剣を抜き放った最強の吸血鬼真祖の怒号が、暗黒の衝撃となって弾けた。