佐祐理が目を覚ましたのは、それから丸一日後のことだった。

気づいたら彼女は、藤野家ではなく…自身の寮部屋のベッドに寝かされていた。
寮長である綾の話では、天草寺で異変があったその夜更けに、紗苗が連れて来てくれたとのことだった。

「なんつーかねぇ…さなさんが、疲れてるみたいだから明日も無理に起こさないであげて、って言ってたからさぁ。
一応、学校には連絡入れといたんだけど…あんたとこの担任もなんか怪我したとかで居なくってさ。
まぁ…あまり詮索するのもなんだけど…なんかやばいことになりそうなら親御さんに連絡しといたほうがいいかもよ?」

綾は起き抜けの佐祐理を見舞い、心配そうにそう告げた。

佐祐理は起きた途端、再び強烈な眩暈に襲われ、寮の廊下で倒れていたのを偶然通りかかった綾に介抱されたのだと知った。
すぐに保険医を呼んで来て診てもらったところ、恐らく貧血を起こしたのではないか、とのことだった。


佐祐理は生まれてこの方、貧血を起こしたことなどなかったのだ。
身体の成長と共に体質が変わることはないわけではないが…その転換期ともいえる二次成長の発現の頃でさえなかったものが唐突に出てくれば、綾が口を濁したように何か大きな病気でも出たんじゃないかと勘繰ってしまうのが普通だろう。


そんな体質が変わるとすれば…彼女にも心当たりがあった。


あの日…意識が途切れる瞬間、彼女の身に何が起こったのか…。


綾が部屋を立ち去った後、彼女はそっと、首筋に触れてみた。

「…っ!」
彼女は真っ青な顔をして、部屋備え付けのユニットバスへ飛び込む。


そして恐る恐る…鏡越しにその首筋を覗き見ると…

(そんな…)

…そこにはうっすらと、犬歯の痕。


(あれは…あの出来事は…)


信じ難い悪夢が覆せぬ現実だと知った瞬間、彼女は寮を飛び出していた。



「天使の羽詩」
第十四話 さよならを おしえて




戦いは終わった。
ジズの痕跡は、その結界やゴーレムの成れの果てとなった土くれも含め、何一つ残らず掻き消えている。

まるで、始めから何事もなかったかのように。


しかし、燃えるような黄昏の空の下に広がる光景が、決してそれが夢ではなかったことを否応にも思い知らされる。



傷ついた佐祐理と修、そしてアッシュは藤野家の母屋の一室に寝かされていた。

「…先生とアッシュ君なら大したケガじゃないわ。
これなら、すぐに目を覚ましてくれると思うけど…」

先ほどの戦闘で紗苗の疲労もかなりのものだったが、彼女はそれをおしてふたりに回復魔法をかけていた。

「すまねぇ…俺はあいつらを…」
そう呟く修の声には、普段のような覇気は全く感じられなかった。

かごめたちに起ころうとしていた異変をいち早く察知し、最悪の事態にならぬよう彼も懸命に力を尽くそうとした。
しかしそれも敵わず、結果的に足手まといになってしまったことが、口惜しかった。

紗苗は頭を振る。

「いいえ…先生がいてくださらなければ、更に悪い方向に動いていたかも知れないです…。
それに、かごめちゃんたちのために命をかけてくださったんだから、それだけでも十分です」

それは気休め程度のことでしかないということは、言った紗苗自身にもわかっていただろう。

相手は史上最強とも言われる魔性真祖。
本来なら自分が相手取れるようなシロモノではない事を、紗苗自身も自覚していた。ユーリ達との戦闘でジズが消耗していればこそ、まだ勝負になっていたのだと。

修のやろうとしたことは、その意味では時間稼ぎにすらなっていなかったかも知れないが…それでも、彼が危険を顧みずかごめたちのために動いてくれたことが紗苗にとっては嬉しかった。

「…藤野と…熊野は…ふたりは無事なのか…?」
「…命に別状はないはず…だけど」

そのとき隣部屋の障子が開き…鴨川が姿を見せる。

彼は戦闘が終わって後、紗苗の連絡を受けて駆けつけていた。
姓は違うが、彼もまた藤野一門に属する練達の術士のひとりである。

彼は意識が戻らないままの佐祐理の治療に当たっていた。

「叔父様…さゆちゃんは…」
「…厄介なことになったようだ…あの子は…恐らくもう人間に戻ることはできんだろう…」

鴨川の表情から、それが変えようのない事実であることは間違いないだろう。
魔性研究の第一人者として、綿密な調査を行った上での発言であることは疑いようはない。

「どういう…ことです?」
恐る恐る、修が問いを投げかける。
「…かごめ君が吸血鬼の力を使ったのは、今日が始めてということでいいのだろう…?
ならば、吸血による対象の従僕化を行ったのも、今日が初めてのはずだ。
…吸血鬼が最初に従僕とした者は、その生涯をも共にする絶対的な服従を強いられる…
その吸血鬼に、例えその気がなかったとしても」
鴨川は真剣な表情を変えることはない。
「…佐祐理君の魂の一部は、既に大きく魔力の浸食を受けている。
もう数時間もすれば完全に侵食されるだろう…
無論、かごめ君が己の意思で吸血鬼の支配能力を行使しなければ普通の人間と変わらん。
だが…以後もかごめ君が吸血鬼の力を使い続けるとすれば…いずれは」
鴨川はそれ以上の言葉を発することが出来なかった。

吸血鬼の従僕になる…ということは、すなわち主たる吸血鬼に使役される生き人形になる、ということ。
それは裏返せば、ジズがかごめにやろうとしたのと同じようなことを、かごめが佐祐理に対してしてしまったということを意味する。

かごめにその意思がなかったとはいえ、結果的にそうとしかいえない事態となったのだ。

「何か…何か方法はないんですか!?」
「…解呪は出来るさ…だが…
そのために主たる吸血鬼が全く無力な存在になる…場合によっては、その命を奪うという前提条件が必須だ」
「…っ!」

紗苗も修も言葉を失った。


鴨川は二人に背を向けたまま、話を続ける。

「事情は兼続君からも聞いた…。

砕けた天使の魂は、恐らく力の強い悪性魔性の手にも渡り、取り戻すためにそれと戦わねばならぬだろう。
かごめ君がそのための力を得るとすれば、彼女も自身の力を使う必要に迫られてくる。
それは…佐祐理君の従僕化の進行をそれだけ早めてしまうということになる。

従僕化の進行は佐祐理君の魂に魔力遮断の術式を仕込めば大幅に遅延させることも出来よう…
定期的に術式を組み直せば、彼女が人間として天寿を全うすることも不可能ではない。

…だが、二人の距離が近くなりすぎれば術式は何の意味も成さん…

もしかごめ君が、これまでのように佐祐理君と普通の生活を過ごす道を選ぶのであれば…古の藤野の秘術を用い、かごめ君の吸血鬼としての力を全て消失させなければならん」


紗苗はその意味を悟った。

つまり、佐祐理を元の人間に戻すためには…かごめがポエットを取り戻すための力を代償として失わなくてはならないということ。
それは、かごめに対してポエットと佐祐理、どちらを選ぶかを強要しなくてはならない。


他の道も勿論あるはずだった。
なんらかの手段で、佐祐理とかごめを同質の存在にする方法も探せばあるだろう。

だが、かごめであれば…恐らくはその道を選ぶことはないはずだった。


それがあるべき姿でなくなってしまうことに、何よりも強い嫌悪を示す少女であるから。
まして、数少ない「友達」と呼べる少女にそれを強要することなど。



(かごめさん…ポエットちゃん…みんなどうなっちゃったの…!?
 確かめなきゃ…今すぐ!)

誰もいない夕方の路地を、彼女は夕日を背にして走る。


もし何も起きていないのであれば…。
あるいは最悪、何か起きても無事に解決したのであれば…そこに何時もと変わらない藤野家の面々がいるはずだった。
そう信じたかった。


彼女は祈るような気持ちで、見慣れたその鳥居をくぐり抜けた。



数刻前。

「…迷惑をかけたね…僕らはこれで失礼させてもらうよ…」

スマイルは動くことのないユーリの身体を抱きかかえ、空間へ手を一振りすると、その空間が切り取られたように暗い穴を開ける。

その先には、闇に包まれた古城の門。
何百年もの間、ユーリが休眠のために使っていた黒い森の奥ひっそりと佇むその場所と、魔力のゲートで繋いだのだ。

戦闘後僅か数時間でそれだけのことができるほど、スマイルの魔力は回復していた。
しかし、深手を負い極限まで魔力を行使したユーリは目を覚ますことはなかった。

「…中で寝てる狼男はどうするつもりなんだ?」
見送りに出ていた六が、立ち去ろうとするその背に問いかける。

「…彼は元々僕らの暇つぶしのために巻き込んだ…ある意味じゃ被害者みたいなもんさ…。
できればもう、こんなことには関って欲しくないと思う。
それはユーリとて同じことさ…」
「…そうかい」
全く振り向こうとしないスマイルの表情は解らない。
しかし、その声からも六には彼がどういう感情でいるのかが解った気がした。

「なら…最後にもうひとつ聞かせろ。

アンタ一体、本当は何者なんだ?

アンタこそ道楽でユーリに付き合わなければならない理由もないだろう?
ましてや、気まぐれというにはアンタの意思はあまりにはっきりしすぎている」

スマイルは振り返る。
その表情は、普段の彼には似合わないほど、悲しみにみちた微笑。


「僕は…透明人間じゃない…
元々はれっきとした人間の魔道師…ある目的のために自分の実体をも犠牲にして不死化魔道師(リッチ)となった、心の弱い人間さ。

本当の名はジェラール=レイクウッド。
彼の母であるメイ=レイクウッドの妹の子…ユーリの従兄弟に当たるのかねぇ」

「何だと…!」

「僕は吸血鬼となった伯母や、その一族をジズの魔の手から救ってやることも…。
従兄弟であるユーリの危機も…その娘であるかごめも救ってやることも出来なかった。
…こんな力を持っていたところで、彼らの行く末を、ただ見ていることだけしか出来ない…結局僕は無力な存在でしかないんだ」

人ひとり通れるかどうかのその風穴へ、スマイルは再び歩を進める。

「ユーリは…まだ十全に自分の力が戻らない状態で、それでも娘のために命を懸けた。
代償として恐らく…この先また何百年もの休眠を強いられることになる。
僕はせめても、その眠りを守り…彼のやりたいことに力を貸す。それが僕のせめてもの罪滅ぼしなんだ」

その姿は完全にゲートの向こうへと入り、それと共にゲートは小さくなってゆく。

「もう会うこともないだろう…
アッシュが起きたら、よろしく言っといてくれ…」

その特徴的な笑いを浮かべることもなく、その姿は空間の向こうへと完全に掻き消えていた。
六はただ、その光景を黙って見送ることしか出来なかった。



佐祐理がくぐり抜けたその鳥居の中に、人の気配は全く感じられない。

例え誰もいなくても、そこに住む者のぬくもりを感じさせてくれたその母屋は、まるで住む者がなくなって久しい廃屋のようにすら感じられた。

「…かごめさんっ!」
佐祐理はいいようのない悲しみを覚え、その広い境内の中を駆ける。

「紗苗さん、六さん…誰かいないの!?」

その少女の名を、その家に確かなぬくもりを残していたはずのその存在の名を呼び。


そして、ある区画にたどり着き、彼女は息を呑んだ。


そこには、かつての戦いの残滓。
凄まじい戦闘が行われたであろうことを示す、抉り取られたままの地面。


(…夢じゃ…なかった…!)


佐祐理の脳裏に最悪の想像が過ぎる。
最初にジズとかごめが対峙した時に浮かんだ、考えつく限り最悪の光景がフラッシュバックする。


呆然とその場にへたり込む佐祐理。


そのとき、彼女は地面の片隅に何か光るものを見つけ…それを拾い上げる。


(ガラスの破片…?)


これほどの跡が残ったのであれば、元になった衝撃で母屋のガラスの一枚や二枚割れて、その破片が飛び散ったのであろうことも想像に難くない。
しかし、母屋に見える窓はヒビひとつないきれいなものに見えた。それ以前に落ちたものであれば、まめな藤野家住人のこと、定期的に掃き清められてそんなものが転がっているはずもなかった。


それに何より、この欠片から彼女もよく知っているある少女の存在を感じさせて止まない。


(そんな…これは…まさか…)


佐祐理はこの欠片に、確かにその少女の存在を感じていた。



「そうスか…」

目を覚ましたアッシュは、事の顛末を聞いてそう呟いた。

「リーダー達も人が悪いっスよ…散々オレのこと振り回しておいて…肝心なところだけ除者にして…」
俯き、握りしめた拳もその声も、少し震えていた。
「…あいつらはあいつらで、オメェがボロ雑巾みたいな姿になるのを見るのが嫌だったんだろうよ。
そのことも…少しは酌んでやってくれ」
六はそれを告げると、億劫そうに腰を上げた。

「これからどうするかは、お前さん次第だ。
あいつらの意思を次ぐにしても、その帰るべき場所を守り通すのも、あるいはそれ以外の道を模索するも…自由に決めりゃいいさ」

アッシュは応えない。
六はそのまま部屋をあとにした。


「…自由…か」
その彼の呟きに応えるものは、いない。


「…何か楽器をやっていた経験はあるか?」
「へ?」
古城の主から思わぬ質問を受け、アッシュは一瞬呆気に取られてしまう。

確か、城の雑用係募集の面接に来たはずだったはずだ。
大学にも出ず、調理師専門学校を卒業してから四年、既に親からの仕送りはなくバイトで食いつなぎながらの就職活動の真っ最中。
採用条件に「料理のできる者は優遇する」とあったので、専門学校を経て調理師免許を取得したその腕前を生かすには格好の職場だと思っていたのだ。

雑用係に楽器を演奏する必要性が何処にあるのだろう?と疑問を覚えるのも無理のないことだ。
それとも、やはりこのような古城に住むような者…まして、どう考えても人間ではないこの主は、そうした面でも何か変わっているのではないかと…彼は思った。

「あ…えっと、一応学生時代軽音部でドラムをかじった程度なら、あるっスけど…」
「…成程、それは好都合だ」

主はすっと立ち上がり、アッシュについて来る様に促す。


わけもわからず、案内された先は…明らかに作ったばかりと思しきスタジオらしき部屋。
しっかりとした防音設備の整った部屋の中には最新式の音楽機材一式、そしてドラムやギター、ベース、シンセといった楽器類が整然と並んでいる。

このような古めかしい造りの古城の中で、その部屋の存在が明らかに異彩を放っていた。


「…騙すつもりはなかったが…雑務の募集など実はどうでも良いことなのだ。
此度バンドを立ち上げることにしてな。
シンセやパーカッション程度ならその場その場でどうにでもなるが、ドラムだけはやはり固定の者が欲しいと思っていたところだ」
「…ってことは…オレはそのバンドのメンバーとしてスカウトされているということ…っスか?」
「そういうことになるな」

アッシュはさらに呆気に取られてしまった。

「無理強いをするつもりではないが…。
どうせなら、何か美味いものを作ってくれる人間がメンバーにいれば良いかと思ったまでだ」

まさか昨日今日会ったばかりの者を…まして、その実力すら未知数というのに、これからバンドを立ち上げるためのメンバーとしてスカウトするなど。
その言葉や考え方は、彼の理解の範疇を超えている。

「少し…考える時間をもらってもいいスか?」
「デビューは一月後の予定だ。なるべくなら二週間以内に頼むぞ」

ただ、目の前の吸血鬼が本気であることだけは理解できた。

断るという選択肢も彼にはあっただろうが、生活がかかってる以上この話を逃せばまたバイトを探してその場しのぎの生活をしながら、伝手のない就職活動を延々と繰り返すだけの生活しかない。


その意味で、彼に選択の余地などなかったかも知れない。


そんな第一歩を踏み出した、それこそ次の良い仕事を探すための踏み台程度と思っていたこのバンド活動が、今や彼にとってかけがえのない仕事となっていた矢先のこの出来事だ。

「酷いっスよ…リーダー…スマイルさん」

その呟きを聞くものは、誰もいない。



「…え?」
何かの気配を感じ、佐祐理は人気を感じない母屋のほうを振り向く。

その欠片をしまいこむと、彼女は立ち上がり、恐る恐る母屋へと近づく。


一歩、二歩。
ゆっくりと、確実に近づいていくその軒下の影に…その少女は確かにいた。


僅かにそよぎ始めた風に、クセのあるセミロングの黒髪と、黒いワンピースの裾を風になびかせるままに…佐祐理を視線を合わせるその表情に、いつものような微笑はない。


まるでその姿は、なんのぬくもりも感じない石像のように、佐祐理には思えた。


佐祐理がその名を呼ぼうとした瞬間、その少女が口を開いた。


「…何をしにきたの」
抑揚のない、冷たさすら感じさせる言葉。

佐祐理は、この少女のこんな言葉を、これまで聴いたことすらなかった。
どんなに不機嫌な時ですら、こんな冷たい言葉を投げてくるような少女ではなかったというのに。


それに、まるで息のつまるような圧迫感を感じる。
その少女…あれほど捜し求めたその存在を見つけ出せたというのに、まるで口を開くのすら阻むかのように…彼女の周りの空気は鉛のように重く感じられた。

それでも、佐祐理は精いっぱいの気力で、その重圧を撥ね退ける。

「あ…私っ…ただ…みんなのことが心配で」
「そう」
興味なさそうなその一言。

見た限り、かごめの姿に変わったところはないように思える。
だが、その姿は本当にかごめと呼べる存在なのかどうか、佐祐理は戸惑いを隠せない。

「…ポエットちゃん…あの子は…どうしたの…?」

言葉一つ一つを吐き出すための行為が、これほどまでに辛いと思ったことは彼女にはなかった。
早鐘のような自分の心臓の音が、これほど煩いものに感じられたのは、生まれて初めてのことだった。


しかし…次の瞬間、その全てが一気に消失した。


「…あんたなんかに関係ないわ…!」


その信じられない言葉に、佐祐理はあとに続けるべき言葉を失った。



目を覚ましたかごめは、その全ての真実を知らされることとなった。

「そんな…あたしの…あたしのせいで…そんなっ…!」

動揺で顔面蒼白になり、焦点の遭わない目で震えながらうわ言のように呟く。
紗苗はその肩を力いっぱい掴み、無理やりにかごめの視点を自分の顔へと持ってこさせる。

「でも…起こったことはもう取り戻せないの…!
だから、この先どうするのか、それを考えなさい!」

紗苗のこれほどまでに厳しく、つらそうな表情を見るのはかごめも初めてだった。
孫次郎が危篤に陥った時も、世を去った後も…泣いた事はあったとはいえこんな表情を見せたことはなかった。

「かごめちゃん…。
あなたが辛いことは、私には理解しきれないかも知れない…けれど、それでもあなたは選ばなくちゃならない。

ポエットちゃんを取り戻すために、戦う道を選ぶか。
それとも、全ての出来事と、あなた自身のその力を封印して、今まで何もなかったように普通に暮らしていくのか。

そのために何をしなければならないのか、その全てをあなた自身が決めなくちゃならないの…!」


気の重い役目だった。
けれど、紗苗はそれをやるのは自分以外にないということも、知っていた。

かごめは紗苗の表情から、ようやくにしてそのことを悟った。



まるで動くことすら忘れてしまった佐祐理へと、かごめはゆっくりと歩いてくる。
時間にすればほんの数秒にも満たない時間だったが、佐祐理にはその時間が何時間にも引き伸ばされたかのように感じられていた。

近づいてくるかごめの瞳に、なんの光もない。
透明度の高い紫水晶を思わせる綺麗な暗紫色の瞳は、なんの光をも通さない奈落を映しているように、暗く澱んでいた。

あの後どんな出来事があったのか佐祐理は全く知らされずにいたが…このかごめの様子からも、相当な事態が起こったことは間違いはないだろう。
それが何であるのか、自分はその際どうなってしまったと言うのか…それらの疑問は、かごめがたたきつけた言葉によって完全に封印されてしまった。


聞き違いであって欲しかった。
このかごめの姿も、彼女なりの悪い冗談だったと思い知らせて欲しかった。

近づいてきたかごめが、いつもの表情に戻ってくれたなら…怒るよりも先にその無事な姿を確かめるために思いっきり抱きつきたい衝動に駆られるだろう。


「…邪魔になるから…さっさと帰って」

その願いは…その言葉で無常にも打ち砕かれた。


「そしてもう二度と……あたしに近寄らないで……!」


その拒絶の言葉は…佐祐理の心へ冷たく突き刺さった。



(続く)