孫次郎と六がぶらりと散歩に出かけて、昼頃に出かけたのが帰ってきたのは夕方だった。

「おかえりー遅かったねー…って、じいちゃん…その子は?」
「う、うむ…少し事情があってのう」

聞けば、迷子ということだった。
保護したはいいが、身寄りに関する記憶も、自分の名前以外の記憶もないと言うことが解り、警察と相談したうえで身寄りが見つかるまで藤野家で暮らすことになったという。

普通の家であれば、そんなことにでもなればきっと大騒ぎするのだろう。
しかし。

「…お友達とかも…覚えてない?」
紗苗は臆した様子もなく、孫次郎の後ろでおどおどと様子を窺っている少女へ話しかける。

少女は面食らった様な表情をして、少し表情を曇らせて考えている様子だったが…小さく頷く。


「…うん、解った。
あたし、紗苗っていうの。

キミがこの家にいる間、あたしをあなたの友達にしてちょうだい!」


無心の笑みで、手を差し伸べてくる少女。


かごめの中で、恐らく生涯初めて、「友達」になってくれた存在のその笑顔は…心の奥底に焼きついて離れない記憶のひとつだった。




-天使の羽詩-
第二十話 ハリネズミたちの選択肢




さながら、野戦病院のような様相を呈していた。
離れた場所にいた双子と歩以外、誰一人として傷ついていない者はなかったが…いずれも命に別状はない。

ケガの軽度なものと双子は、丁度いい頃合ということで食事の支度を始めている。
その一方で。


「…僕はどうせ不器用ですよーだ!」
ふて腐れるような歩。
楽器を扱うのは得意だが、料理裁縫といった家事の類は苦手分野だった彼女は…魔力を使い果たして眠っているかごめと紗苗、そしてまだ眠り続けている葉菜の看病を申し付けられていた。

彼女はトレードマークのニット帽はそのまま、ピンクの花柄をあしらった着物を身につけていた。
先ほどの騒動で服が汚れてしまったので、本家に仕舞われていた紗苗の着物を借りて着ているのだ。


佐祐理は六と一京に連れられ、別の部屋で話をしている。
除者にされている、というより、話し相手のいない退屈さで彼女は大層ご立腹の様子だった。



「わわ…」
間一髪でかごめの身体を抱きとめた反動で、佐祐理も諸共に地面に転ばされる格好になった。

何時の間にか彼女の腕も、元の華奢で色白な少女の腕に戻っていた。
だが上着は肩口から弾け飛んだ状態になっており、ジャージの上着は丁度ライフジャケットのような格好になってしまっていたのだが。


腕の中のかごめは、この激しい戦闘で極限まで力を出し切り、意識を失っていたが…彼女のそのぬくもりを直に感じ、佐祐理は安堵する。
そのとき、彼女は同時に飛び出していたもうひとつの存在が、そこにいないことに気がついた。

(紗苗さん…?)

振り返った先には、倒れ付した紗苗を介抱している六の姿があった。


「…ったく…どいつもこいつも、無茶ばかりしやがって…」
その身体をゆっくりと、自分の背に負わせながら六は笑う。
その表情は、何処か淋しそうで…それでいて、嬉しそうにも見える。


佐祐理は今更のように思い出す。


−私の魔力も限界に近いから、無駄話は出来ないけど…−


紗苗が、本当に極限まで己の力を出し切り、かごめのために戦い抜いたことを。


六の視線と、見上げた佐祐理の視線が交わる。
「…まだ、動けそうか?」
「え…はい」
「悪いが…かごめのこと、頼めるか?」
一瞬何を問われたのか、佐祐理は一瞬考えをめぐらせる。
「…はい!」
限界というなら自分も一緒だった。
しかし、このぬくもりをもっと感じていたいと、そう思ったとき…不思議と、少し元気が戻ってきた気がした。

背格好はそれほど変わらないかごめの身体は、思った以上に軽いように、佐祐理には思えた。


他の術士たちも、あるいは傷ついたものに肩を貸したりして、屋敷への帰路を取っていた。
その道中で双子や、いまだ目を覚まさない葉菜を背負う歩とも合流する。


「…色々…済まなかったな」
本家に帰ってくる道の道中、無言だった六の第一声が、それだった。

「言い訳なんかしたかねぇし、過ぎたことはあまりうだうだ言いたくはねぇ…
だが…お前たちが来てくれて良かったと、俺は思ってる」
背後に続く佐祐理たちを振り返り、淋しそうな表情で笑う六。

「本当なら、お前たちのような…普通の子達が、あまり関って欲しくない世界だと思ってる。
ここからならまだ引き返しはきくし、かといってこのままずっと一緒になんとかしてくれって強要する理由も、そのつもりもねぇ。
わざわざこんなところに首を突っ込まなくても…お前たちがかごめの友達でいてくれさえすれば、それで十分だと思う」
「六さん…」
「だから…これからどうしたいかは、お前等の自由だ。
…もうどうせ、少なくともかごめから離れるなんて選択肢は…お前たちにはないんだろう?」
顔を見合わせる歩と佐祐理。

ふたりは、ゆっくりと頷く。


「なら、取るべき選択肢は二つある。

日常へ戻り、日常生活のかごめの友達としていてくれる道と…
あくまで、魔性狩りとなって、こいつとともに戦う道だ。

幸か不幸か、さゆ坊にはかごめに匹敵するほど、強大な力があるらしい。
それに葉菜と歩…鴨川の叔父貴から、どちらも魔性狩りとして、極めて優秀な資質がありそうだと聞いた。
その気になって力を磨けば、いずれ俺や紗苗に匹敵する…あるいは、それ以上の使い手になるかも知れんってな」

六はそこまで告げて、再度背を向ける。

「そんなに長くは、叔父貴の誤魔化しももたねぇだろう。
だから二、三日中には、俺らも元の天草寺に戻るつもりだ。
その時が、本家を離れる日になると思う。

別に早い答えを強制するつもりもねぇし…向こうへ戻ってからゆっくり考えてくれてもいいから…
お前たちもどうしたいのか、しっかり考えてくれ」

そのまま、彼は本家の門をくぐっていた。



眠り続ける三人の傍らで、歩はその六の言葉を反芻する。


日常に戻り、日常の場でかごめを…あるいは、同じ選択肢をとった者達の友としてあるべきか。
あくまで、日常を離れかごめと命運を共にするのか。


(僕は…僕はどうしたいんだろう…)

歩はここへ来るまで、葉菜の幼なじみとして、大好きなトランペットを吹いて気ままに部活動に勤しむいち女子高生だったに過ぎない。
確かに現状を維持しつつ、かごめの「友達」であり続けることは不可能ではないだろう。


(でも…僕は…)
歩の脳裏に、かごめの言葉が過ぎる。


−できれば…今度は一緒に…あたしのこと、助けて欲しい−


歩はひざの上に置いた自分の手を、強く握り締める。

(葉菜は…葉菜ならどうするだろう。
 きっと、きっと葉菜なら…)

彼女がよく知る幼なじみの少女であれば、導き出す結論はきっとひとつだろう。

(…ううん、葉菜がどうするかなんて、関係ない!
 僕の意思は……僕の意思も…!)

歩もまた…ひとつの覚悟を決めることとなった。



佐祐理もまた、破れたジャージの代わりとして大判のシャツを一枚借りて上から羽織っていた。
今は本家に居ない誰かが残していったものらしかったが、かごめや紗苗の服だとサイズが合わなかったため、仕方なくこの男物と思われるそれを借りていたのである。

「重ね重ね済まんな。
まぁ、紗苗が倒れたって話を理恵子のヤツに教えてやったし、来れば何とかしてくれるだろう」
「あ…その…すみません」
からからと笑う六のあとについて、顔を紅潮させて俯きながら佐祐理は続く。

彼女は、屋敷の一室に通される。
その六畳間程度の居室には、既に先客がいた。袈裟姿で、陣笠を深くかぶった人物…恐らくは男性だろう。

六に促され、彼女は六と、その袈裟姿の人物とも向き合う格好でちょこんと正座して座る。

「先ず…ヘンなことを聞くようだがさゆ坊。
こいつのことは見覚えあるか?」
陣笠をかぶったその術士を示され、佐祐理はその質問の意図を測りかねる。
「え…えっと」
「つかてめぇ…何時までそれかぶってるつもりだこの坊主」
「あ、これはうっかり」
六にたしなめられ、その術士…一京は陣笠を取って傍らに置く。
佐祐理はその顔を見てはっとする。
「…一京さん!」
「久しぶり、さゆりちゃん。椿叔母さんのところで世話になってた頃からだから…もう五年ぶりくらいになるかな?
随分綺麗になってびっくりしたよ」
笑いかける一京。

「というかおまえら一体、どういう関係になるんだ?」
「え」
六の質問に、何故か佐祐理は一瞬言葉に詰まってしまった。
なんか勘違いしている気がしたが、それを六に突っ込まれる前に一京はさらりと応えてしまう。
「僕の父がさゆりちゃんのお母さん…椿叔母さんの兄に当たるんですよ。要するに従兄妹ですね。
その関係で一時、叔母さんのところで色々仕込まれてたんですが」
「なるほどなぁ。
俺ぁまたてっきり、さゆ坊がこっちに来たがったのはお前さんの仕業だと思ってたが」
どうやら六には本当にそういう勘繰りがあったらしい。


確かに佐祐理が親元を離れようとした理由には…何年も前に旅の修行者となった父親のこともあったろうが…この十も年上の従兄に端を発しているのは確かだ。
佐祐理には一人弟がいるが、闊達でいつも近所の仲間と野山を駆けずり回っている弟に対して、大人しい性格の彼女は常に家にいることが多く、修行の合間に一京の話し相手になることも多かった。

漠然としてでも憧れがなかった、となれば嘘になるだろうが…それ以上に佐祐理を惹きつけて止まなかったのは、彼が修行の旅で見聞した様々な地方の、彼女が知らない景色の話だった。

高校を出てすぐ一年間の基礎修行を経て、その後退魔師としての研鑽を積むべく各地を回り歩くこと三年。
世界地図で見ればごくごく小さいこの日本という国の中にも、多くの知らない世界があったこと…当時十二歳だった彼女は彼の話を聞くたび、そうした違う景色を見てみたいと、日増しに強く思うようになっていたのだ。

旅から滅多に帰らぬ父や、この年上の従兄が見てきた世界と、全く別の「自分だけが見る景色」を見てみたい一心で。


「…まぁ、それはさておきだな」
六はひとつ咳払いをする。

「さゆ坊。
まだ詳しい状態は解らんが…少なくとも、今のお前からはかごめの支配魔力はまったく感じられん。
俺は術が使えないだけで、そういうことを感じ取ることは出来るから解る。

…だが…今のお前は、それとは無関係に“人ならざる存在”になっちまった。
そのことは解るな?」

六の真剣な眼差しに、佐祐理は自分自身が力に目覚めたときのことを思い出す。
暗闇の中、ポエットに導かれて観た、自分の体が記憶している両親の会話…俄かに信じ難いその話が、現実として起こったことを、彼女ははっきり自覚している。

ゆっくりと、彼女は頷いた。

「…ならば…お前はどうする?
お前がどんな答えを出そうとも…先ずは、お前のおふくろさんには連絡してやらにゃならねぇ。
封印が解かれた事で、今は安定しているその強大な妖気が、何かの拍子で暴発した時のための前後策も練らなきゃならんしな。

俺としては…そのチカラはあくまで戦うための力だと思う。
その力を御するために、戦う力を欲するなら…ひとつアテがある。協力はしてやれる。
勿論…強要はせんがな」

重ねて問う六の表情は変わらない。

そして、それを受ける佐祐理の意思も。


「…くどいです、六さん。
私、もう絶対に、かごめさんだけをひとりで苦しませたくない。
かごめさんが泣いているのに…私だけ何も出来ないなんて…何もしてあげられないなんて…もう嫌なんです!」


自分の意思を確かめるように。
自分の思いを確かめるかのように。

佐祐理ははっきりと、そう言い放った。


「そうか」
六は不意に、表情を緩める。



その後、彼女の実家への連絡は一京に任され、六は佐祐理とともに歩のいる部屋に場所を移し、全ての経緯を、歩に対して同じように説明し始めた。
かごめの過去のこと、佐祐理の身に起こった変化のことも全て。

歩はただじっと、真剣な表情で六と向かい合って、その内容をじっくりと反芻して…

「…だったら…ここにいる日にちだけでもいい。
六さん…僕に戦う術を、教えてください」

その答えは、六の想像よりもずっと早く帰ってきた。

「歩先輩…?」
怪訝そうな表情で歩の顔を覗く佐祐理。
歩は、にっこりと笑って返す。

「…多分、葉菜も同じ道を望むと思う。
さゆちゃんの心の叫びは、あの時僕にも聞こえてたんだ。
見ているだけは嫌、何も出来ないで居るのは嫌だ…って」
はっとして、そのあと佐祐理は僅かに頬を紅潮させる。
その様子が可笑しかったのか、歩は僅かに笑うと、表情を曇らせた。

「…僕も…もう見ているだけはイヤだ。
葉菜が斬られた時…僕も何も出来なかった…

かごめちゃんを怒鳴っておいて…僕だって何も出来ない弱虫だったのに…!」

その瞳の端に…少しずつ涙があふれる。

「僕は…僕はもう、あんな悲しい思い…つらい思いは二度としたくない…!
大切な友達を…大好きになった友達が傷つくのをみているだけなのは…もうイヤだ…!
僕に…僕にそんな力があるなら…みんなを助けるための力が僕にも欲しい!」
歩は、眠っていた葉菜の手をしっかり握り締める。

「…痛いよ…歩ちゃん」
はっとして歩が顔を上げると、眠っていたはずの葉菜が困ったように笑っていた。

そして、ゆっくりと身体を起こす葉菜。
歩が支えようとするのを、大丈夫、と彼女は制して、呆気にとられたままの六のほうを向く。

「…歩ちゃんが張り切りすぎて…いいたかったこと全部言われちゃったけど…
あたしも、彼女と同じ気持ちです。
だから…お願いします」
葉菜の表情も真剣だった。

六は無言で、少女たちの姿を見やる。
傍らには、頷く代わりに「ほら、この人達ならこうでしょう?」と言わんばかりの微笑を向ける佐祐理。
彼女のその表情を見ずとも…その応えはとっくに彼にも予想はついていたのかも知れない。

「…ったく…どいつもこいつも…。
かごめや紗苗の奴にも、爪の垢を煎じて飲ませてやりてぇくらいだぜ…!」
六は笑う。
「…だが、ひとつだけ約束をしろ。
必ず、親御さんにはそのことを包み隠さず話すんだ。
鴨川の叔父貴からも聞いたろうが…こちらの世界は洒落で済ませられないほど危険な世界だ。
今回直にそれを体験したんだから、いちいちんな事言わなくても解ってるだろうけどな」
「…はい!」
神妙な表情で頷く葉菜と歩。
それを見て、六も鷹揚に頷いて返した。



かごめや紗苗が目を覚ましたのは、それから間もなくのことだった。
時計は八時近くを指していたが、夕餉の準備が終わるまではまだしばらくかかるらしいとの事で、紗苗もかごめも六から事の顛末を聞かされていた。

「…そう」
二人はそのことに、特に驚いた様子を見せていない。
「…ここまで…来ちゃう娘たちだからね…」
かごめは、その紗苗の表情が…何処か淋しそうにも思えた。
「…帰ってきたばかりで悪いが…そういうことだ。
結局逃げる理由がなくなった以上、俺たちは楽奏の家を捨てる理由もない。
一京の話じゃ、明日には奴の叔母…“信越の鬼姫”直々に娘の様子を見たいという話だから、ここに二、三日居ることになるが…週末までには帰ることにすると叔父貴にも連絡しておいたぜ」
六は悪びれもなく、全ての段取りを既に整えたというその事実だけを告げる。
「うん…」
まだ状況が良く飲み込めていないかごめに対し、紗苗は何処か感情の置き場に困ったような、そんな様子で生返事を返す。

「まぁ、そういうことだ。
なんだかんだで巻き込まれちまったのは…かごめ、お前だって一緒だ。
お前の苦しみの全てを俺は理解し切れてないかも知れんが…だが、あいつ等の気持ちを無碍に出来る資格は、今のお前にはない。
それだけはよく肝に銘じておきな」
「…解ってるよ」
少し拗ねたような表情で、視線をそらすかごめ。

しかし、それは現状に対する不満からではない。
彼女自身でも考えて覚悟を決めたことを、今更六に言われるまでもない…と、そう訴えているように、六には思えた。

その様子に、かごめからは迷いが消えていることに、六も安堵した。

だが…。

「…さな姉?」
心配したようにかごめはその顔を覗き込む。
しかし、彼女は俯いたまま応えようとはしない。

最初はその理由を測りかねていた六だったが…かごめに対して言った言葉の最中、紗苗が僅かに反応していたのを見逃しては居なかった。

その時だった。


けたたましく足音を立て、誰かが部屋に近づいてきたと思ったら、ばん!とその部屋の衾が開け放たれた。
そこから姿を現したのは。


「さなちゃん!」
部屋に飛び込もうとするばかりのベルを制し…扉を開け放った主…理恵子はそのままの体勢で紗苗をきっと睨みつけていた。

「ベル…リエちゃん…どうして」
何故彼女等がここに…という誰何の言葉よりも早く、困惑する紗苗へと理恵子は間を詰める。
進路上に居た六も、寝ていたかごめもその鬼気迫る表情に驚いて思わずその場を飛びのいてしまった。

理恵子が紗苗の着物の襟首を掴んで無理やり立たせた、次の瞬間。


ぱぁん!と乾いた音が部屋に響く。


六もかごめもベルも…当然紗苗にも一瞬何が起こったのか解らなかった。
感覚の戻ってきた紗苗の頬に、鋭い痛みが走る。

ゆっくりと顔を元の位置に戻すと…鬼気迫る表情の理恵子の瞳から、ぼろぼろと涙が零れ落ちているのが解った。


「リエ…ちゃん」
「……さなちゃんの馬鹿っ!」
俯いた理恵子の、嗚咽交じりの一言が、紗苗の心に深く突き刺さった。

「黙って…私たちにまで黙って…居なくなるなんて酷いよ…!
あの日…ベルと三人で出かけていって…あの桃の木の下で誓ったじゃないのっ…!
みんなで一緒に幸せになろうって…!」

へたり込む理恵子に引きずられるように、呆然とした表情のまま紗苗も再び、この一連の騒動で乱された布団の上に座らされる格好となった。

その温もりを確かめるかのように、紗苗の胸に身体を預けて嗚咽の声を漏らす理恵子。
その傍らに、ベルの姿もあった。
「ついさっき…六さんから教えてもらったんだ…。
リエちゃんもたまたま、仕事の残務整理やって帰るところで…。
…本当に…本当に心配したんだから…!」
「…ベル…」
紗苗の瞳からも涙があふれ、少しずつ零れ落ち始めた。

「…もう…もう勝手に…いなくならないで…!」
その言葉に応えるかのように。

「ごめん…本当にごめんね…!」
二人の身体を抱き寄せる紗苗。
三人は互いの存在を確かめるように、抱き合って泣いていた。


「…六兄が呼んだの?」
部屋の隅っこで退避していたかごめが、傍らの六の袖を引いてきょとんとした表情で問う。
「あ、ああ。
多分この様子なら、連中にも黙ってたんじゃねーかって思ってな。
理恵子の反応を見る限り、先ず間違いないだろうが」
「…六兄お節介焼きすぎなんじゃないの?
…んま、あたしたちにも非があるのは認めるけど…さ」
「違えねえ。だが、これで良かったと思うがな、色々と」
「…うん…色々と、その…ありがとう、六兄」
僅かに頬を紅潮させながら、それでも微笑んで応えるかごめの頭に、そっと六は手を置く。
「ああ。だが、それはあいつ等にも、ちゃんと言ってやれよ」
既に立てるまでに回復したかごめを伴い、六は紗苗たちを残してその部屋を後にした。


夕餉の支度が整ったのは、それから間もなくのことだった。



普段の調子を取り戻したかしまし娘たちを交えて、この日の藤野家の夕食はその前夜とは打って変わっての明るい雰囲気に包まれていた。

ほんの数刻前まで命がけの戦闘を終えてきたばかりというのに…いや、だからこそなのだろうか。
藤野の術士たちは、その命あることを喜ぶかのように、大いに盛り上がっていた。


「やれやれだねぇ」
その席から外れ、かごめは縁側でぼんやりと夜空を眺めていた。

ほんの数時間前の自分がまるで、タチの悪い悪夢の中の出来事だったかのように、彼女の心は穏やかに落ち着いていた。


不安がないとすれば嘘になる。
実際、開き直ったとはいえジズの力は呆れるほど強大。
そんなシロモノとの戦いに、決して巻き込むまいと思っていた者達を巻き込んでしまったというのに。


「…かごめさんっ」
不意に背後から声をかけられ、ぎょっとして彼女は後ろを振り返る。
すぐそばに、佐祐理の顔があってさらに戸惑うかごめ。

その表情が可笑しかったのか、くすっと佐祐理は笑った。

「良かった。やっぱりいつものかごめさんだ」
その笑顔に釣られるかのように、かごめも笑う。

かごめに促されるまま、佐祐理もその傍らに腰掛けた。


しばらく無言のまま、ふたりは自分たちの姿を煌々と照らす月を眺めていた。
どのくらいそうしていただろうか。

「…ごめんね」
最初に口を開いたのは、かごめだった。
「でも…さゆが来てくれて…あたしは本当に嬉しかった。
あんな言い方をして…あたしはあのとき、生まれて初めて…自分の気持ちに嘘を吐いたんだ。
さゆが…傷つくのを、あたしは見たくなかった。
ポエみたいにしてしまうのが本当に怖かったんだ」
「かごめさん…」
「自分でも…馬鹿なこと言ったと思った。
歩先輩が言ったみたいに…あたしは、弱いから…突き放す選択肢しか取れなかった」
俯いたかごめの横顔は、酷く寂しそうに見える。


不意に、かごめはその両の頬を押さえられ、強引に向き直された。
目の前にはすぐ、優しく微笑む佐祐理の顔がある。

「さゆ…?」
ついさっきも…互いの吐息が感じられる程の距離に顔を置いていたが、不意を突かれた格好になって訳も解らず気恥ずかしく思えてきていた。
その澄んだ黒くつぶらな瞳の中に、僅かに上気した自分の顔が映る。
「…でも…かごめさんにはちゃんと、決心がついたんでしょう?」
かごめは小さく頷く。
「私は…私ももう、自分の気持ちに嘘はつかないから…。
これから先、何があっても私は…かごめさんの友達であることを、やめないから」
その言葉に、かごめは胸の奥が温かいもので満たされていくのを感じていた。
「…ありがとう…」
それだけいうのが、彼女には精一杯だった。

その素直な微笑みを、かごめは決して失いたくはないと思った。


「そうだ」
佐祐理は思い出したように…駆けつける際に理恵子が持ってきて宛がわれた服のポケットから、ひとつのカケラを差し出す。
「これ…多分かごめさんに渡しておかなきゃならないものだから」
「え…?」
既に光を失い、鈍い飴色になったそのカケラの正体が解らず、怪訝そうにそれと佐祐理の顔を交互に見るかごめ。
「昨日…藤野家の庭で、かごめさんに逢う前に拾ったの。
このカケラに残っていたポエットちゃんがいなかったら、きっと私も…ここへ来ることはなかったと思う」
「ポエの…まさか、これ!」
かごめもようやくにしてその正体を悟った。
佐祐理は頷く。

「私に…私の過去の話をしてくれるので、このカケラに残ったあの娘の力は限界だったの。
きっとこのカケラは、そのためにあの場所に残っていてくれた…私には、そんな気がする」

佐祐理はそっと、かごめの手にそのカケラを手渡した。
かごめは恐る恐る…持っていたくすんだ色のラッパに、そのカケラを重ね置いて見た。

「あ…!」

カケラは再び光を放ち、ゆっくりとラッパの中へと溶け込んで行き…小さな光となって消えた。

「これで…やっとひとつめ」
愛おしそうに、僅かに光を取り戻したそれを眺めるかごめ。
「このラッパに触れて解ったんだ…あの子の魂は、全部で三十一のカケラに割れている」
「…何処にあるとか…誰が持っているとかは…?」
かごめは頭を振る。
「けど…このラッパとあの子のカケラは、きっと互いに引き合うんだと思う。
あたしのところへ、あの子がさゆたちを連れてきたように。
だから…きっと」
かごめは立ち上がり、煌々と照らす満月を見上げる。


「きっとまた…出逢ってみせるから」


降り注ぐ月光が、彼女の決意を祝福するかのようにその姿を照らしていた。