六月。
「ったく、毎年毎年こればっかりは慣れんな。
幻想界に土地を移すはいいが、何もここまで「日本」を再現せんでもいいだろうに」
飾り気のない水色の雨傘と、今も泣き続ける灰色の雲を湛える空を眺め、水色の髪の少女…否、年齢的には「女性」と言って然るべきだろうか…が、シニカルな笑みを浮かべ、ひとりごちる。
彼女は、最近にわかに活性化してきた商店街の中を、傘を差しながら歩いていく。
突然のギルド活動一時休止宣言を受け、倉野川へ戻ってきた蒼井透子は普段通り大学の講義を受けに出て、そして講堂からほど近い日向美商店街をアテもなく歩き、そして家に帰るという日常を繰り返していた。
時に、同じく日向美大学の法学部に入学した旧来の友・水森
「…今日はゲーム、って気も起きねえしな。
さて、何したもんかな」
雨脚の強さは変わらず、派手に音を立てることもなく足元の水たまりに細かな波紋を広げる梅雨の中、彼女の足は何時の間にか商店街を離れ、晴天であれば近所の者達の姿もある自然公園へと差しかかっていた。
透子は思い返す。
一年ほど前、この街で起こった様々な出来事を。
そして…その最後の夜に、この公園で起こった奇跡のような灼熱のライブを。
そのあとも、様々な出来事があって…彼女は今、ここに立っていた。
死を覚悟したことも、一度や二度ではない。
日常と非日常を行き来し、自分が今どこに属しているのかの境界すら曖昧になるそんな忙しない日々も…今の彼女を形作る大切な要素だ。
こんな雨の日に、ぼんやりと雨の落ちる空を眺めながら、物思いに耽るのも悪くない…そう思った彼女が、洒落た六角形の屋根を持つ休憩所へと差しかかった時、彼女はそこに思わぬ者を見た。
薄手のコートを羽織り、口元を時期外れにも思えるマフラーで覆う、山吹色の髪の少女だ。
やや丈の短いように見えるが、コートの裾から見えるスカートの柄は、彼女もよく見慣れた制服…日向美の高等部指定のもの。
透子は高等部を中心とする、かごめの集めた特別招待生「対魔性特別学級」に週に三度顔を出している関係もあり、「学級」以外の日向美の生徒にも顔見知りは少なくはない。
僅かに覗く顔は彼女も見覚えがなくはなかった…が、それは学校内でではなかった。
眠っているのだろうその少女に、声をかけようとして、彼女は気づいた。
「…!
おい、お前」
上気し、荒い息を吐くその頬は、焼けるように熱い。
明らかに高熱を発している。
「…何があったか知らねえけど…ったく」
僅かに咳こむその姿に、透子は溜息を吐きながら…その無抵抗の身体をゆっくりと引き上げる。
見た目以上の軽さと、その全身から発する熱に驚きながらも、彼女は傍らにあった帽子と刀も空いた手で抱え、少女…東條乱麻を背負ってその場を後にした。
「狐尾幻想樹海紀行 緋翼の小皇女」
番外編 ストレイガール・イン・アーリーサマー・レイン Part1
乱麻が目を開けた時、そこには古めかしい木目の天井がまず飛び込んできた。
そして、頭に何か冷たいものが置かれている感覚を覚え、ゆっくりと、まだ自由の利かない視線を動かしながら、必死に情報を集めようとする。
自分が、布団の上に寝かされた状態で、なおかつ、風邪でもひいたのだろう意識が朦朧としている事は理解できたが…視界の先には、持っていた刀が立てかけてあり、その上には、ハンガーで吊るされた帽子とコート。
「ああ、良かった気がついたんだな。
まだ夏にはまだ早い。野宿してたのかどうかは知らんが、風邪ひいてんのにあんなとこで寝泊まりしてたらダメに決まってるじゃないか」
その声の方向に視線を移すと…その家主と思われる水色の髪の女性が、傍らのちゃぶ台に何か置きながら苦笑いしているのが…。
彼女はそのとき、全身に電流が走ったような衝撃を覚え、険しい表情のまま起き上がろうとする。
しかし…高熱におかされ、衰弱しきった身体がまるでいうことを聞いてくれず、すぐに布団の中へと突っ伏してしまう。
「おい…大人しくしてなきゃ。
何時からああなってたのかわかんないけど、今の時期でもあのままいたら死んじまうかもしれなかったんだよ?」
「うる…さい…!
化生の世話には…ならぬ…!!」
なおも起き上がり、刀へ手を伸ばそうとする乱麻の姿に溜息をつき、透子は、呆れたように溜息をつきながら軽くその額を小突くと、その姿は再び力なく布団へところがされてしまう。
「あんたの事情だって、あたいも知らんわけじゃないんだがな。
少なくとも、あたいとしては知ったツラを見放して、そのせいでぽっくり逝っちまったなんつったら寝覚めが悪いからそうしただけだ。
気に喰わないんだったら、元気になってからにしろ。本気になったかごめさんの気に中てられて心をぶち折られた程度の奴になんか、このあたいが後れをとってたまるかい」
透子は、あえて挑発的な言葉で吐き捨てるも…咳込む上体を支えて起こす。
乱麻は最初抵抗しようと構えるものの、朦朧とした意識が許さず、諦めたのかその成すがままだ。
そして、口元に何かを近づけさせられて、剣呑な表情のままそれと透子の顔を交互に見る。
「今の時期でも風邪薬が簡単に手に入るんだから、便利なもんだよ。
飲んで、また寝ておきな。それが一番だ」
「…っ」
乱麻は難色を示すように、眉を顰める。
「あんたも苦いのはダメか」
「…!
そんなことは」
「うんうんわかるわかるよ、あたいも実際苦手だ。
だからこんなもん飲まなくてもいい様に、少なくともあんたよりは健康に気を使ってるつもりなんだ。
っても混血とはいえ氷精のあたいでも、風邪ひく時はひくんでな…実際こいつが一番効く。
敵に塩を送る、とも言うだろ。そのぐらいの度量と剛胆さがないなら、魔性狩りなんかやってられねえんじゃねえの?」
乱麻は、何処か訴えるような視線を一瞬透子に向けるが…やがて観念したのか、一層表情をしかめて一息にそれを飲み下す…。
…
…
夢。
夢を見ている。
燃え盛る村々の夢。
最早見慣れてしまった、忌まわしき光景…だが。
-…ちゃん…とーちゃん!
やだあああああ!そんなのやだああああああああああ!!-
この日、乱麻が見た夢は、それとはまったく異なる惨劇の光景だった。
周囲に深く降り積もるその雪を、夜闇を切り裂いて煌々と照らすのは…火に包まれ遠ざかる集落。
そして、遠ざかる紅蓮に、必死に手を伸ばし泣き叫ぶ少女、
乱麻は、俯瞰する瞳となってその一部始終を見ている。
-あたいも…あたいもいっしょにいく!!
あたいをひとりにしないでええええええええええ!!-
泣き叫ぶその水色髪の幼い少女は、同じように悲痛な表情の青年にきつく抱きとめられている。
-ごめん…ごめんよ…!
君以外の誰ひとりも…僕じゃ助けてあげることができないんだッ…!!-
青年は、絞り出すような声で、泣き喚く少女を諭す。
-こんな…こんなことが許されていいはずがない…!
誰もが笑って生きていける国だから…その国の象徴になるって…僕は誓ったのに…!!
ごめんよ…僕は…僕は無力な王だ…!!-
青年の紅い瞳から堕ちる涙が、抱きしめた少女の頬で彼女の涙と混じり合い…氷の滴となって落ちていく。
…
…
乱麻ははっとして目を覚ます。
まだ高熱でぼんやりとする視界に夜闇が重なって、夢現の境界もはっきりしないその空間で、彼女は早鐘のように脈打つ心臓を抑えながら、荒く息をし続ける。
(今の…夢は…)
彼女はその、脳裏に植え付けられた記憶を必死に探る。
否…その脳裏から抜け落ちつつある、その今わしき記憶の数々を、彼女は必死に思いだそうとする。
ハイ・ラガードへ行って以来、彼女の「記憶」は実際徐々に薄れつつあった。
物心つく前からその身に刻まれていた「亡霊」たちがもたらしていたおぞましき惨劇の記憶は…あの日、かごめの凄まじい殺気により、大元の「亡霊」共が彼女から引きはがされたことにより、時間が経つにつれて少しずつ、「彼女自身の記憶」から抜け落ちつつあった。
その大元が失われたとはいえ、幼い頃よりその身に刻まれた、呪わしい狂気の業の数々まで消えたわけではない。
拠り所であった「記憶」が失われつつある彼女は、過去に施された非人道的な「処置」によりなんの感情も抱くこともなく、日を経るごとに希薄になっていく己自身をも顧みることもなく、ただ…「亡霊」が残したもっとも強い怨念を「最後の拠り所」として存在していたと言っていい。
言うまでもなくその「拠り所」とは、その惨劇の記憶を生み出した「金色の邪」を討つことだ。
しかし…その「記憶」は、「亡霊」の消滅によりこれまで深層意識の中に抑圧されていた「本来の乱麻」というべき存在にとって、受け入れ難い現実。
現物の「雷鳴と共に現る者」と対峙した時に、初めて恐怖と共に揺り動かされたそれは、かごめの放った殺気で一気に肥大化し…そして彼女を「亡霊」のもたらした呪いのくびきから、初めて解放された。
以降も時折、それは少しずつ顔を出すようになり、それまで冷酷な戦闘マシーンであった彼女を、年相応の一人の少女へと立ち戻らせつつあったが、かごめと対峙して以降、明らかにその時間の方が長くなった。
藤野一族の暗部という拠り所を失った彼女は、生きるためにフリーの魔性狩りとして戦いに身を投じる必要も迫られてきたが、その戦闘中にも強烈な恐怖心となって顔を出し、一歩間違えれば致命的とも言える隙を生むことも珍しいことではなくなった。
彼女が季節外れの風邪に冒されていたのも、依頼で戦った病魔が放った、断末魔の一撃を浴びてしまったことに起因していた。
それも、彼女が垣間見せた「隙」のために。
乱麻は自覚してはいない…いや、認めたくなかったのだ。あの日萌芽した「その弱い存在」が、本来の自分自身であることを。
もしそれを受け入れてしまったら、自分はどうなってしまうのか?
彼女はそのことで、これまで「自分自身」であったモノ全てを、否定されるのを恐れていたと言っていい。
乱麻の今の戦慄は、それに起因していたと言っていい。
夢で泣き叫んでいるその少女はまるで、あの日目覚めた…その現実から逃れようと、振り払おうと、彼女は激しく頭を振る。
そのとき、彼女は気がついた。
夜闇にも慣れ、一日安静にしていたことで僅かにはっきりしてきた視界に捉えられる、ちゃぶ台を挟んだその向こうで、苦しそうにうなされている透子の姿を。
乱麻は、一瞬顔をしかめ、そして…這いずるようにして、その傍へと近づく。
「いやだ…嫌だよ…なんで、あたいだけ…!」
表情を苦しげに歪め、泣いている彼女の身体を、乱麻は衝動的に揺さぶった。
どうしてそうしようと思ったのか、彼女にもわからなかった。
だが…はっとして目を覚ます透子が見たのは…その腕に必死にしがみつき、声を殺して涙を流す乱麻の姿だった。
透子はそのことを察した。
「…そうか…やっぱり、見せちまってたんだな。
ごめんよ。これがあるから、本当はあまり他の奴と一緒の部屋で寝たりはしないようにしてたんだ…」
その嗚咽の声が、透子の腕の中でくぐもって響く。
…
…
ちゃぶ台におかれた目覚まし時計の針は、朝の五時を間もなく指そうとしている。
布団にしっかりとくるまりながら、乱麻は泣き腫らした目のまま、目の前におかれたカップのココアから立ち上る湯気をぼんやり眺めていた。
やがて、洗い場から焼いたばかりのトーストを持って戻ってきた透子が、その対面に座る。
恐らくは、以前の学校のものをそのまま使ってるのだろうか…見慣れない校章を胸元にあしらった青いジャージを羽織っている…おそらく、乱麻が今着させられてる部屋着を、本来は着ているのだろう。そのサイズはさして小柄でもない彼女にも、僅かに大きく感じられた。
「まあ、たまには早起きをするのもいいだろうしな。
二度寝をするのもしんどいし…あんたも、食べるか?」
乱麻は、一瞬彼女の顔を見るが…ゆっくりと目を伏せて頭を振る。
「…まだ、食べられそうにない」
「そうか。
じゃ後で、粥か何か食べやすいもんでも買ってくるよ…辛くてもなんか喰わなきゃ、身体が参っちまうからな」
少し寂しそうに笑い、透子はバターだけを塗った焼き立てのトーストを口に運び始める。
しばらく、その咀嚼する音だけが黙々と響く部屋で、ずっと眺めていた湯気が小さくなる頃会いに…乱麻は、始めて口を開いた。
「あの…夢」
「んあ?」
「あの夢は…あなたの」
その言葉に、昨日目を覚ました時のような、刺々しさはどこにもない。
透子は哀しそうに眼を伏せるが、溜息を吐き、淡々と語り始める。
「あたいは、六つの時に母さんを、そして父さんも、生まれた街ごとなくしたんだ。
去年の暮れに大規模な掃討作戦が行われた「森の梟」が持ち込んだ、「街殺し」のせいで」
「えっ…?」
見上げると、透子の哀しい瞳の中に、弱々しく戦慄くような自分の表情が映しこまれる。
「蛭の森で最も忌まわしい性質を持つ最凶種「街殺し」は、寄生する対象の穴という穴からその体内に寄生し、そこで爆発的に増殖して「破裂」させ、同じようにして次の宿主へとり憑くことを繰り返す。
単為生殖も可能なあの悪魔一匹で、あたいの生まれ故郷である「氷精の郷」だけじゃなく…幻想界に点在する妖精の小邦ひとつをまるまる全滅させた例がある。
…あたい達氷精は、「梟」の奴らが唱える身勝手なお題目で…そして、冷気を嫌う他の大多数の妖精たちが救いの手の一つも差し伸べてくれなかったせいで…混血児のあたい一人を残してあの日、全滅したんだ」
乱麻は、その衝撃的な事実を知り、背に冷や水を叩きつけられたかのような衝撃を受け…そして、理解した。
先の夢は、透子の持つ忌まわしき惨劇の記憶であることを。
「村で唯一の人間で、「街殺し」寄生の進行が遅かった父さんは…その死の間際まで、唯一「街殺し」の影響を受けていないあたいを無事なところへ逃がす伝手を探してくれた。
けど、父さんはもう、自分が助からないことを知っていたんだ。
「街殺し」は薬でも魔法でも除去できないし、体内に一匹でも入ればその数を爆発的に増やしていく…父さんがどうやって抑えてたかは解らないけど、あの日の時点でもう限界だったみたいなんだ。
あたいは、父さんの知り合いというその人の車に乗せられた…父さんは、それが遠ざかることを確認して、村に残って火を放ったんだ…燃え盛る家の窓から遠く手を振る父さんの姿が、あたいの記憶に残る最初の光景なんだよ」
乱麻は、戦慄の表情のまま、カップを強く握りしめている。
透子はさらに続けた。
「あたいは、父さんの知り合いというその人に引き取られた。
同じように、妖精国で迫害を受けてきた妖精や魔性達がひっそりと暮らすその街で、あたいは育てられたんだ。
夜の妖精、闇の妖精、魔族、覚の混血…蛭竜の血を引く奴もいた。
みんなみんな、妖精国の連中に忌み嫌われ、住んでた場所も仲間も失って、追われて集まって…なおも、次に何時その街が同じような惨劇で幕を閉じるかと、怯えながら生きていたんだ。
あたいは許せなかった。
ずっとずっと…こんなセカイを作り出した奴らを…そいつらを野放しにしてる、妖精国の王様も…!」
内心の憎悪を強引に抑えつけるかのように、拳を震わせる透子。
うっ血するほど握りしめられたその拳が、急に解かれ…その肌の色が元の透き通った薄い色へ戻っていく。
「…誤解、だったんだけどな、最後のだけ。
あとで知ったんだ…誰ひとりとして「街殺し」を恐れて手を差し伸べなかったのを知って、妖精国の王様が自ら、あたいを連れ出してくれたこと。
何度も何度も「無力な王様でごめん」って、泣いてくれたことをさ。
今のあたいは、いずれもっと力をつけて…あたいを育ててくれたあの街のみんなのような、妖精国で生きられなくなった連中の力になりたいんだ。
もう二度と、自分たちの住んでいる場所が…仲間達が、理不尽に奪われなくなるための「力」になりたい。
…タイマーさんが成せなかったことを、あたいが成し遂げるんだって、そう思ってる」
歪む視界の中で、カップの中の黒い水面に、次々と波紋が生まれる。
「わたし…!」
乱麻は泣いていた。
そして、彼女はそのことをはっきりと受け入れたのだ。
人間か、人間じゃないかなんて些細な事で…目の前の彼女が、忌まわしい記憶を抱えながら、それを乗り越えて前に進んでいるということを。
「わたしには、そんなもの、なんにもない…!
こんなチカラなんて、こんなつらい思いなんて…欲しくなんてなかったのに…!!」
それは…彼女がおそらくは初めて見せただろう「東條乱麻という一人の少女」の姿であったのかもしれない。
透子はその傍らに寄ると、何も言わず震えるその肩を抱きしめてやった。
…
…
それからさらに翌日。
この日は、夢を見なかったらしい透子が、その辺から鳴り響く音に気が付き、ぼんやりと目を開け…そして、絶句する。
「あ、あの…!」
怯えるように縮こまる乱麻と目が合い、そして、その先に見える、吹きこぼした鍋で消えたコンロから濛々と湯気が上がるのを見た透子は、もう言うべき言葉も見当たらずに頭を抱え、そして立ち上がってつかつかと乱麻の肩を掴んで、絞り出すように告げた。
「なあ、乱麻」
「ごめん…なさい、わたし」
「いやもう何も言うな。何も言わなくていい。
お前さんの気持ちは解ったが、とりあえず座ってろ。あとはあたいがなんとかするから」
触れた肩から、彼女の熱はすっかり引いていたことだけは確認できた。
元々、その修練により人並み外れた回復力を持っていたこともあるのだろうが…先日、早く目が覚めたこともあって、ふたりで早々に布団にもぐってしまったのもあったのだろう、乱麻の風邪は、すっかり治っているようであった。
しょんぼりとちゃぶ台の前で正座するその姿に、仕方ない奴だなあ、とばかりに溜息をつくと、乱麻がもたらしただろう惨状の流し場とコンロ回りの掃除を、透子は始めることにした。
…
「……ああうん、悪いけど今日はちと用事があってあたい顔出せないって、それだけ教授に言っといてよ。
……あー…いいよサボりにしたきゃサボり扱いで。
とりあえずトコ、なんか変わったことあったらノートだけ見せてもらえると…ああ解ってるって、今度奢るから。そいじゃよろしく」
通話を切り、髪を整えて鏡の前で「よし」と大仰なポーズをとると、彼女は背後にたたずむ乱麻へと振り返る。
その姿は、これまでの部屋着とも、初めてこの部屋に来た時のコートと制服姿ではない…僅かにサイズの大きいゆったりとした、誰が描いたのか「南無三」と大書されたTシャツと、裾を三つ折りぐらいにしたぶかぶかのジーンズに、彼女のトレードマークである黒い鍔広帽子をかぶった姿。帽子以外は、恐らく透子のものであろう。
「んあー…やっぱちとでかかったな。
あたいはもう着れなくなっちまったから、丁度いいかと思ったんだがなあ」
振り返る彼女も、同じように裾を折ったジーンズに、氷の結晶をデフォルメされた模様をあしらうブラウスと、同じ模様を胸元にあしらったベストという出で立ちだ。
彼女は難しい顔で腕組みをしていたが、まあいいか、とポケットへスマートフォンを仕舞い、乱麻の背を押して促す。
「もう元気になったとは思うがさ、今日一日は気晴らしにふたりで出かけよう」
「えっ?」
「あんた、まあ当然っちゃ当然かもだが、他の連中と遊んでたりするのなんて見たことねえしさ。
…病み上がりの身で、いきなりまたなんかとドンパチするするのもHARD過ぎんだろ。
要は、今日はあたいも大学をサボりたい気分だから、治療代がわりにあたいにつきあえ、そう言ってんだ」
にっと、悪戯っぽく笑うその表情と、姿見に映る自分の姿を交互に眺めていた乱麻は…やがて、はにかんだように小さく頷く。
「よっしゃ、じゃあ決まりだ」
そして、手を引かれるがままに、乱麻は透子の部屋を後にする。
…
出かけた先はいつもの商店街。
現在は大人しく学校で授業を受けているだろう咲子はもとより、他のひなビタメンバーを筆頭とするいつものメンバーもいないシャノワールで軽く昼食を取った後、閑散とした商店街のゲームセンターへ足を運ぶ。
卯花芽兎という、全国トップレベル級の音ゲーマーを擁する店だけあって多種多様の音楽ゲーム筐体が狭い店内にこれでもかと並ぶ店内で、初めて触れるゲームに興じ、初めてとは思えないほどの集中力でプライズゲームから景品を取って、乱麻はその年齢よりもずっと無邪気な表情で笑う。
その姿に、透子もため息混じりながら、同じように笑った。
ひとしきりゲームを楽しんだ後は、夕食の買いだしに出かける近所の主婦たちとすれ違いながら、ウインドーショッピングとは程遠い、商店街の軒先に並ぶ野菜や惣菜類を見ながら、二人は商店街を行く。
コンビニの一軒すらないその商店街ではあったが、かえって、近海で揚がった季節の魚や新鮮な野菜に、目を見張る。
透子は普段何気なく眺めてる光景だったが、何もかもを興味深げに眺めるその少女に倣い、その派手さはなくとも鮮やかな光景を、生まれて初めて見る思いでゆっくりと眺めている。
そして二人はバスに乗り込み、海岸沿いの総合病院へと足を運ぶ。
氷海の父が経営し、近くに源泉を持つ温泉が引かれた入浴施設で、海の一望できる窓からの景色を、ふたりで眺めた。
基本的にシャワーでしか使わないアパートの浴室に我慢が出来なくなったとき、気晴らしに来る場所ではあったが…やはりこういう場所の経験もほとんどないのだろう、戸惑いながらもやがて透子に倣い、同じような表情でぼんやりと、無心に目の前に広がる風景を乱麻は眺めていた。
「わたし…今までこういうの、全然知らなかった」
それまで、周囲の光景に振り回されつつも満喫していたらしい乱麻が、ぽつりとそう漏らす
「わたしは…ずっとずっと、戦うことしか知らなかった。
わたしが本当は知らない、何時の誰のものか解らない、こわくてつらいことしか、わたしにはなかった」
その表情は、何処までも寂しそうだった。
「わたしは…わたしを、全然知らない。
これから、わたしがどうすればいいのかも」
透子は溜息を吐く。
「そんなもの、あたいも一緒だ」
乱麻は彼女の方を振り返る。
「あたいには確かに夢が…やりたいことはある。
でもな、その道中どうすりゃいいのかなんて、わからんことだらけだ。
あんたが行っているのと同じようで別の、あの樹海で…土手っ腹に風穴開けられて、死にそうな目にあったってのにもかかわらずな」
乱麻は、着替える時に一瞬だけ、それを見ていた。
透子の右脇腹には、何かに抉られたような痛々しい大きな傷があったのを。
その傷は、今は纏われたバスローブに隠れて見えなくなっているが…恐らくは、アレは一生消えない傷になるのだろう。
「透子…さん」
そのとき、たどたどしい口調ではあったが…乱麻は初めて、彼女の名を呼ぶ。
透子は僅かに驚いたような顔をするが、なんだ、といつも通りの表情で応える。
「透子さんは…竜と、戦ったの…?」
「ああ。
あたい一人でじゃ、ないけどな。
あたいと…つぐみ、美結、めうめう…そして、幽香さんがいて、それでも…死ぬか生きるかっていう戦いだった」
「その…お腹の傷」
ああ、と、透子は今初めて気づいたかのように、困ったように笑う。
「こいつはまた別件でな。
そうだな、この時もあたいは絶対死んだなって、思ってたんだけどな。
この時も、竜の時も…かごめさんとやり合った時も…んまあ、あの半年で本当、どんだけ無茶やってきたんだろうな。今思い返すと、ぞっとするな」
「怖く…なかったの?
わたし、本当はとても怖かった。
桜の森で、あの金色の竜を見た時…今はいなくなったあいつらが、あいつを殺せ、って急かしたけど…今も、ずっと耳の奥でその声が聞こえてくるのに…わたし、あんなのと戦いたくない…!」
その、黒く特徴的な湯の中で、彼女はきつく目を閉じて縮こまる。
恐怖で小刻みに震えるその肩を、透子はそっと抱いて、諭すように告げる。
「…別にさ、あんたがそう思ったら、無理にあんなのと戦う必要なくないか?
あいつを殺せ、なんて、あんた自身の理由じゃないんだろ?」
「けど…あいつらの声は、きっと…あの金色を殺すまで消えない…わたし、もう聞きたくない…!」
「だったら、ぶっ倒すしかないよな」
あまりもあっけらかんとしたその答えに、乱麻も目を丸くして顔を上げる。
「逃げるのも戦うのもあんたの自由。
誰も、そんなことで責めやしないだろ。
それに…あんた一人であいつと戦わなきゃならないのか?」
「…!」
「七大真祖、とか言って、本来ならあたい達とは比べ物にならないチカラを持ってる幽香さんだって、一人であんなのとは戦えなかった。
そんなのとたった一人でやり合おうなんて、命知らず通り越してただの自殺志願だ。
…どうしたらいいのか分からないっていうんだったら、もう少し、あたいのところにいても構わない。ゆっくり、考えればいいよ…あせらないでさ」
感情も定まらない涙を流し、肩を震わせるその少女を、透子はしっかりと抱きよせた。
…
…
その日の夜更け。
乱麻が眠りについたその頃会いに、透子はアパートの踊り場で、一人の少女と会っていた。
その少女が、溜息とついてゆっくりと口を開く。
「…幻想郷幻想界、だいぶ探しておったが…四方や、お主のところに転がりこんでおるとは予想もしておらなんだ。
乱麻の奴が、随分迷惑をかけてしもうたようじゃ。まずは、すまんかったの」
見た目にそぐわない、老人然とした喋り方をする…その見た目によく似合うオーバーオールと、青いトレーナーに身を包んだオレンジ色の髪の少女は…茜だ。
透子は、踊り場の自販機で買った紅茶を一口煽り…ジャージ姿のまま溜息を吐く。
「んや、あたいも偶然見つけたし…放っても、おけなかったしさ。
奨学金暮らしの身でなかなか痛い出費だったが、んまあ、天涯孤独の身としては久々に充実した日々だったから気にしないでいいよ」
「そうか。
ならばいずれ、わしの方から埋め合わせはしよう…色々あって、これには不自由しておらんからの」
茜は悪戯っぽく笑い、左手の親指と人差し指で丸を作って示して見せる。
透子も苦笑するしかない。
先日、高熱による疲労と風邪薬の効果で乱麻が眠りについた時、透子は鈴花の兄である大牙に連絡を取り、彼を経由して茜へ事の次第を連絡していた。
茜は携帯電話を持っていないことは勿論のこと、その草庵に電話は引かれてすらおらず、内弟子として彼女と生活を共にする大牙の携帯電話以外に連絡の手段がなかったためだ。
大牙とは、バトルで共に戦った縁もあって互いに携帯電話の番号を交換しており、茜の孫である烈にこの事を話すとややこしい事態を招きかねないと直感して、このような方法で連絡を取ったのだ。
良くも悪しくも直情径行の烈がこのことを知れば、一も二もなく自分のところへ押しかけて来ることは火を見るより明らかだ。
烈は透子の住んでいるアパートを知らないだろうが、何度か早苗や氷海を招いている事は知っている。氷海はまだしも、普段は押しの弱い上に人情家の早苗なら、まず間違いなく烈に共感して家に招いてしまうだろう。
茜も「良い判断じゃ、烈に知らせようものなら事態がややこしいことにしかならんじゃろ」と笑い、乱麻の容体が落ち着いた頃を見計らって再度連絡を、とだけ伝え…そして、乱麻の隙を見て大牙にメールを送ったところ、夜半に茜が訪ねてくるということになった。
それより、と、透子は茜へ問う。
「茜さん。
乱麻はどうしても、金竜と戦わなきゃいけないのか?
…本当のあいつは、金竜と戦いたいとは思っちゃいない…それどころか今のあいつは、とても戦える状態じゃないよ。
まるで、小さな子供だ」
茜は、透子と同じようにして手に持った茶のペットボトルから…口を話して視線を下ろす。
茜は彼女の言葉から、乱麻の今の状態を悟ったようだ。
「あ奴に施した術が、解けつつあるか。
確かに、八意殿は言っておったな。
「亡霊」どもの影響が薄れてくれば、その記憶と共に少しずつ、あの夜の記憶を封じる術式も効力を失ってくると。
…だが、あまりにもその進行が早い…もし、今の状況で術が解けたら、今の乱麻では、あの恐怖に耐えきれず壊れてしまうやも知れぬ」
「かもな。
あたいの「夢」を見た時のあいつ、尋常じゃない怯えぶりだった。
……茜さん、どうしてやればいい? あたいに出来そうなことは、何かあるか?」
茜は何か言おうとして、ひとつ溜息をつく。
「施術のやり直し…が一番現実的じゃの。
じゃが、本来はそうおいそれと解けるような暗示ではないものが、こうも容易く短期間で解けることを考えると、この先どれほど有効なのかもわからん。
それに」
「解ってる。
いつか、あいつ自身が直面しなきゃならない問題だ。
茜さん…明日、あたい午前しか講義入れてねえし、終わった頃に大学まで来てもらえねえか?
あんたを交えて、乱麻にも話をしたい事がある」
「…解った。
お主に、任せてみるとしよう」
茜は一瞬、表情を険しくするが…透子の意思と覚悟を読み取ったのだろう、鷹揚に頷いて承諾の意思を示す。
二人は気づかなかった。
物陰から、その二人の様子を伺う視線を。
それが…全ての転機の始まりであったことを、今は誰も気づかぬまま。