翌朝。
「おーい、乱麻ぁー」
透子はまだ布団からわずかに顔を出し、静かに寝息を立てる少女の頬を軽くつつく。
くすぐったそうに顔をしかめるものの、乱麻が目覚める気配はない。
仕方ない、と透子は溜息をつくと、焼いておいたトーストの皿に埃避けのふたをかぶせ、その皿を重しに書き置きを挟む。
-あたいは昼まで大学に行ってるから、起きて腹が減ってたらこれを食べておいてくれ。
牛乳やバターは冷蔵庫の中だから、欲しかったら自由に使っていい。
ただし、キッチンのコンロには絶対に触れないこと。
お前に会わせたい人がいるから、一時ごろに戻る。大人しく待っているように-
「これでいいな」
透子は立ちあがると、講義に必要な筆記用具やタブレット端末、財布やスマートフォンなどを詰め込んだバッグを肩にかけ、昨日出かけた時と同じ格好で部屋を後にする。
扉が閉じ、部屋に鍵がかけられる音と共に、乱麻が目を開けたことも知らず。
乱麻は、何かを決意したような瞳で立ち上がり…窓の向こう、自転車を漕いで遠ざかっていく透子の後姿を眺め、呟いた。
「いろいろ、ありがとう…透子さん」
「狐尾幻想樹海紀行 緋翼の小皇女」
第五十七夜半 ストレイガール・イン・アーリーサマー・レイン Part2
それから四時間ほど時間は過ぎ、大学の構内で打ち合わせ通りに待っていた茜を伴い、戻ってきた時、透子はその異変に気づいた。
鍵が、かかっていないのだ。
一瞬、透子は自分が鍵をかけ忘れたのではないかと思ったが、すぐにその考えを否定する。
茜も何かを察したように、目を合わせた二人が頷くと、透子はその扉を開け放つ。
室内を荒らされた形跡はない。
だが、見れば乱麻の靴はなく、机の上には、綺麗に重ねられた空の皿とマグカップが残されており…そして、駆け込んだ透子はそこに挟まれた書き置きをひったくるように取り上げる。
そこには…朝、出がけに自分が乱麻に充てた書き置きの下に、細いタッチの綺麗な文字で、こう描かれていた。
「いろいろ、ありがとうございました」…と。
「あいつ…一体何処に…!」
見まわしても、彼女がこの部屋へ連れてこられた時着ていた制服も、刀も、その身の周りのものだけがあとかたもなく無くなっている。
布団も、着させられていた部屋着もきちんとたたまれている。
茜は、その様子に深く溜息を吐く。
「…やはり、聞かれておったのかも知れんの」
「えっ」
「ほんの一瞬じゃが…昨日お主と話をしていた時、あ奴の気配を感じた。
お主の部屋からではなく、背後からじゃ。
…あ奴は元暗部だけあって、気を隠す術にも長けておる…わしらの話を聞いていたのであれば、自分の身に起こるだろうことも覚ったじゃろう」
透子は言葉もなく、ただ、振り返って茜の姿を見やる。
そのとき、透子のスマートフォンが着信を告げ、彼女は一拍置いてから、相手の名前を確認する。
その相手が大牙であることを確認した瞬間、彼女は妙な胸騒ぎを覚え…通話音と感度を最大にして、それから応対する。
「もしもし」
-蒼井さんか!
師匠は、そちらに?-
「聞こえておる。
どうした、何か危急の用事か?」
-は…はい!
緊急事態です…さくら野のチャスコモールに、突如「蛭竜」らしき魔物が出現し、一瞬のうちに「領海」を広げたとのことです!-
「何じゃと!?」
思っても見ない大事件の報告に、茜も透子も色を失う。
「この面倒な時に…それで、今状況はどうなっておる!?」
-はっ…昨年の騒動以来、有事に備えていた警察がいち早く動き、従業員と客はほぼ避難を終え、周辺は結界封鎖されましたが…まだ、中に子供が一人、取り残されているという情報があります…!
それと、気になる話もひとつ…子供が残されていると知って、山吹色の髪の少女が、結界が完全に展開される前に建物へ入って行ったと!-
透子は戦慄した。
その胸騒ぎが、最悪の形で的中してしまったことに。
それは、茜も思いを同じくするところであろう。
-それ故、事態の収束を師匠に依頼したいと…!-
「承知した。
大牙、お主は周辺の気を探り、周囲に蛭どもの気配がないかを調べ、見つけ次第虱潰しに潰して回れ。
必要なら、烈を呼んでも構わん。わしらが行くまで、被害を拡大せぬよう努めよと、警察の者にも伝えよ!」
-解りました!-
通話を切り、険しい表情で二人は顔を見合わせる。
「馬鹿者め…心も定まらぬまま、蛭竜に挑もうとするなど…!」
茜は絞り出すように、吐き捨てた。
そして透子の方へ、視線を送り…透子も頷く。
「放ってはおけねえだろ…あたいも行く、いいだろ!?」
「無論じゃ、お主は居てもらった方が有難い!
急ぐぞ!」
ふたりは部屋を飛び出すと、階段を下りる間も惜しむかのように三階の手すりから階下へと飛び降り、そして透子が茜のスクーターの荷台へ飛び乗ると同時に、それはトップスピードでさくら野へ向けて発進する。
(無茶しやがって…どうか、無事でいてくれよ…!)
透子はただ、それだけを願った。
…
…
時間はそこから三時間ほど前にさかのぼる。
透子を見送り、クリーニングされて戻ってきていた自分の制服へ着替えた彼女は…最後に、透子が残してくれていた朝食を食べ、簡単に後片づけを済ませると…書き置きに件の、感謝の言葉を短く綴って部屋を後にした。
「これでいいんだ」と、自分に言い聞かせるようにして、彼女は振り返ることなく歩き出した。
透子であればおそらく、これから自分に起こるだろう事、それが最悪の結末を迎えることとなっても、自分の存在を受け入れてくれるのかもしれない。
だからこそ、これ以上迷惑をかけたくなかった。
これまで自分の「拠り所」であったことも、己自身の中から出た理由ではない。
透子は、それに固執する必要はないと、そう言ってくれた。
(ほんとうは、わたし、そんなことをやりたくなんてない。
でも…わたしは、それだけしか知らないから。
だから)
彼女は当て所もなく、歩き続ける。
今にも泣きそうな曇り空の下、北へ向けて。
(だから、「我」は、切り捨てねばならぬ。
此の幼く弱い内なる者を。
…ずっと…今までずっと…そうしてきたように…ッ!)
己に言い聞かせるその思いとは裏腹に、その表情は、悲痛なものだった。
…
それからどれほどの時間が過ぎたのか。
どんよりと空を覆う雲がなければ、恐らく昼に差し掛かる頃だろうか。
彼女は、倉野川大結界の北西端近く…さくら野ニュータウンまでさしかかっていた。
彼女は直接関わってはいないが、昨年の夏、この地は一度「森の梟」により導かれた蛭竜の魔性貴種「墨眼」が、侵攻の足がかりとした拠点でもあった。
墨眼とその一党が滅びた後も、この地には当時の瘴気の名残が残り、時に中る者もいるほど…この地の空気は、淀んでいた。
しかし、この日の淀みの大きさは異常であったことを、この街で過ごして日の浅い彼女には関知し得ぬ事だった。
彼女が、この地で起こっている「異変」を認識したのは、すれ違うパトカーや警察車両が不自然なほど多く、そして、ある一点を目指していたからだった。
それらが向かう先から、ただならぬ瘴気が立ち上っている事に気づいた彼女だったが…一度は、己には関係のないこと、と立ち去ろうとした。
だが。
「おい聞いたか?
またチャスコ、魔物に占拠されたとか言う話だぜ」
「またかよ…去年もそれで散々な目にあったじゃねえか。
条件もいいからこそ越して来たはいいが、こんなことばかり繰り返されて居たんじゃなあ…元から住んでた連中は慣れたもんだとみえて、こんな騒動になっても落ちつき払ってやがる。
どんな神経してやがるんだか…」
すれ違うヤジ馬達の喧騒。
近所の大学と思しき二人組の彼らはおそらく、元から倉野川にいた者ではなく、造成中のニュータウンへと引っ越して来た者たちだろう。
今年開校した日向美大学のみならず、隣町・東深見にある大学に通う者もこの街にも多いが…彼らもまた、そうした若者なのかもしれない。
「俺らも早いうちに避難できたが、それだけじゃもう命がいくつあってもたらんのじゃないか?」
「つか、あのオバハンに応対するポリ共も災難だな。
まだガキ一人、モールに取り残されてるかもしれねえってよ。
森の蛭って、取りついて寄生したり、腹喰い破られたりすんだろ? なんだよそれ、エイリアンか」
「その話!」
乱麻は衝動的に、その一方へと取りすがっていた。
腕を捕まれた男は怪訝な表情で、突如現れた彼女を一瞥する。
「お、おいなんだよお前」
「詳しく聞かせて!
子供が、取り残されてるの!?」
切羽詰まったような乱麻に戸惑いながら、男は友人と思しき傍らの男と顔を見合わせ、溜息を吐いて答える。
「ったくそんなこと聞いて面白いのかねえ…。
俺らもしらねーぜ、ただ、避難の途中に子供とはぐれたとか言ってて…なあ?」
「街殺し、とか言ったっけ?
そんな物騒でキショいバケモノまでいるかも知れねえってんで、建物なんて完全封鎖されちまったみてえだし…っておい、あんた!?」
それだけ聞くや否や、乱麻は男の腕を解放し、疾風の如く駆ける。
(たすけなきゃ…!)
どうしてそう思ったのか分からない。
だが、彼女は走った。
透子なら…きっと、そうしただろう。そう思って。
…
茜達が到着した時は、乱麻が建物の中に入ってから既に一時間近く経過していた。
「娘を…どうか、私の娘を…!」
叫び憔悴した中年の夫人が、数人の警官に解放されながらそれをうわ言の如く繰り返す。
茜は透子を伴い、敬礼を持って迎える警察官と、その中心にいる部隊長と思しき者に面会する。
「突然のお呼び立て申し訳ございません、茜さん。
相手が蛭竜と思われる魔物では、我々では対処が難しく…」
「いや、瘴気拡大前にピンポイントで結界遮断をしたのは、良い判断じゃ。
状況はどうなっておる? スノームーンの軍に連絡は?」
「は…それが…」
険しい顔の部隊長から、茜は詳しい情報を確認し始める。
透子は傍らで聞いてはいたが、状況は思った以上に芳しくない事が伺える。
そこへ、ふたりの姿を認めた大牙もかけてきた。
「蒼井さん!
君も来てくれたのか」
「ああ…成り行きでさ。
それより大牙、結界の中に入って行った女の子って」
大牙は頭を振る。
「俺も詳しい話は解らない。
だが、そこのご婦人の話を聞き、警官隊の制止を振り切って建物の中に駆けていったというんだ。
黒い鍔広帽をかぶった、刀を持っている女の子だと…まさかとは思うが」
「多分、そのまさかで合ってるよ。
あたいも…そいつを探してたんだ」
そこへ、情報を聞き終えた茜が戻ってきた。
「確認できる限り「街殺し」は居らぬようじゃが…これほどの瘴気を短時間に精製するとなれば「毒蛭」はかなりおるじゃろう。
あの夏からすぐに、倉野川の警察に結界張り専門の部隊を作らせたのは正解じゃった。正直、こんないきなり役に立っては欲しくなかったがの。
乱麻は暗部の出だけあって、修練により毒に対する耐性もあるが、これほどの瘴気では如何程もつか」
「軍は出せぬのですか?」
大牙の問いに茜は頭を振る。
「中に潜んでいる奴はおそらく、墨眼の側近の生き残り…「猛毒のモサ」じゃろうな。
「斑」や「袈裟掛」も討たれ、「玄婆」も八雲の九尾が焼き殺したと言っておったが、「モサ」に関しては劣勢になったと見るや否や姿を消したとだけ聞いておった。
あの側近共の中でも、執念深く狡猾な奴じゃ。
一体あの中にどんな罠が張られている事か…奴相手じゃと、並の対毒防御ではないも同然。軍を動かすにも相応の準備は要る」
「どうすんだ、茜さん。
アテになる奴が他にいねえなら、あたい達だけで行くしかねえんだろ?」
透子は内心の焦りを隠すかのように、あえて語気を強める。
茜はそれに危惧を覚えるものの…だが、このまま手をこまねいて見ているだけでは事態は好転しないことも理解している。
「大牙、烈の連絡先は控えておるな。
もし、一刻待ってわしらが戻らなんだら、奴と魔理沙と氷海、それと流水及び樹花属性持ち以外で解呪に長けた連中を可能な限り呼んで事に当たるのじゃ。
警察の連中にはわしが一言話を通しておいてあるし、かご姉にも式神は飛ばしてある。
最悪、かご姉が来るまでこれ以上の被害の拡大をせぬよう努めい! それまでは、周囲を徹底的に探り、蛭を見つけ次第必ず全て殺せ!」
「承知!」
「透子、わしらは結界内へ突っ込むぞ。
まずは乱麻と、取り残されたという子供の保護を最優先じゃ!
魔力で防護壁を張るのを忘れるでないぞ!」
「…応よ!」
駆けだす大牙と同時に、茜と透子は穿たれた結界の穴からその内部へと飛び込んでいく。
…
-見よ、貴様のその様を。
その脆さが、この事態を招いた。
金色の邪を討つまで、貴様は眠っていればよかった物を…!-
その内から、忌々しげにそのどす黒い存在が吐き捨てる。
乱麻はうっすらと目をあける。
夢現の狭間の中で、彼女はかごめと対峙した夜以来…自分の身に封じられたその存在の声を聞いた。
-忌々しき吸血鬼と「紅鴉」の小娘よ…!
だが、我も迂闊であった。まさか貴様を隠れ蓑にやり過ごすつもりが、まさかそれで我を封じ込める心算であったとは。
金色の邪を討ち果たす前に、我が消えてしまっては本末転倒。
なんのために、貴様を依代に蘇ったのか…!-
「なぜ」
乱麻は、朦朧とした意識のまま、其れに問う。
「なぜ、あなたはあの金色に、こだわるの?
あいつは…わたしたちには、どうにもできないんだよ…?」
-虚けめ!
我はその為にのみ生み出された!
我はあの邪を討ち-
「そのあと、どうするつもりなの。
あなたが生み出された理由は、そんなかなしいことでいいの?
なんのために、そんなことをしなければならないの!?
こたえてよ!!」
そのどす黒い存在は、その言葉に沈黙を守っている。
そして、その周囲は炎に閉ざされていく。
だが、それは今まで見ていた炎の惨劇ではなく…透子の、記憶だ。
「今なら…今なら解る。
あなたが、きっと…本当は、こういうかなしみから生み出された存在だって。
あなたは、その過去をつくりだした存在を、消す為だけに生み出されてしまったって」
黒い影は応えない。
そして…ほんの数刻前、彼女が囚われる直前の記憶がフラッシュバックする。
瘴気の渦巻くそのフロアの一角で、飛び込んできた乱麻は、取り残されていたのだろう一人の少女と遭遇する。
自分が助けに来たことを伝えると、少女は、泣きながら自分に飛びついて来た。
…しかし。
-我はアレが、あの魔の罠だと知っておったわ!
なればあの小童ごと斬り殺し、禍根を断つべきであった!
今までの貴様であれば、迷うことなくそうしたはずぞ!!-
そうだ。
少女に気を取られた瞬間、頭上から猛毒の空気を纏った毒蛭の塊が、雪崩落ちてきた…それが、今の彼女の無様の原因だ。
救おうとした少女の年頃と同じ頃から、己の身を寸刻みにするような苦痛と狂気の日々を経て培ってきたその技術がなければ、身に受けた猛毒はとうに致死量を超えていたであろう。
とはいえ、瘴気を肺腑の隅々まで吸い込んでしまった彼女の肉体も、半分死んでいるような状態だ。
反射的に突きとばした少女も、どうなったのか解らない。だが、この瘴気の中に長時間いたのであれば…あの幼い命も、どのみち助かるまい。
-全ては貴様の所為だ!!
我は…我はこんなところで消えねばならぬのか…!
これでは、我は何のために…!!-
責めるような、無念さを滲ませるその声に…その悲痛な叫びに、乱麻は再び、向き直る。
「そうだ。
そうだよ。
…こんなことは…もう…終わらせなきゃ、いけないんだッ…!!」
その闇の中、彼女はその意思でゆっくりと立ち上がり…その黒い陽炎の存在へ言い放つ。
「今…今はっきりと分かった。
我は…ううん!「わたし」は!
この悲しみを全て終わらせるために生まれたんだって!!」
-何…を-
乱麻はその黒い存在の手を…そう、形の成した陽炎の手を取る。
「一瞬だけ、わたしは「あのひと」の心も感じ取れてたんだ。
あのひとが体験してきたつらさも、苦しさも、哀しさも!
…あなたも、きっと、そうしたモノが生み出した…だったら!私が、その全てを終わらせる!」
-虚けめ。
その先に何が残る…貴様は、そう我に問うたはずではないのか…!-
その陽炎の声は、先のような責める口調ではない…戸惑ってすら聞こえた。
だが、乱麻に迷いはなかった。
「ゆっくり、考えたんだよ。
この先のことも、終わってからゆっくり考える。
…だから、今は…あなたが与えてくれた「目的」の…その為に、生きてみる」
僅かな沈黙を挟み、愚かな、と一言その影が告げる。
そして…繋がった手に、黒い影は刀の形を成していく…。
-虚け者め。
今の貴様では、まだまだ足りぬ…またこのような目に遭わされては敵わぬ。
我を刃と成し、生き延びて見せよ! ただし貴様の力足りなくば、金色の邪の前に貴様の存在を!我が喰らい尽くしてくれる!!-
…
-ククク…思わぬ上物がかかったぞい。
墨眼めが、逸り過ぎたが故に我らは雌伏の時を余儀なくされたが…こやつの血肉をすすれば、我は蛭竜としてさらに格を増す事も出来ようぞ…!-
紫水晶のような結晶の外皮を背に、毒々しい紫の環節を粘液でぬめらせる醜悪な巨体を揺らし、瘴気を纏う忌むべき魔が、猛毒の粘液網に囚われたままの乱麻へゆっくりと這い寄ってくる。
先年、この地で討たれた蛭竜の貴種「墨眼」の側近・猛毒のモサ。
「蛭の森」において最も強力な毒を操る毒竜で、倉野川の騒動の折には、さくら野に乗り込んできたかごめといち早く遭遇したものの、その圧倒的な攻撃力に恐れをなし、肉体が焼き滅ぼされている間に本体を分離し、逃げのびていたものだ。
そして、結界の薄いさくら野から森へと戻り、墨眼亡きあとの森で力を蓄えたこの魔は、少しずつさくら野に瘴気の根を張り、倉野川に常駐する強力な魔性貴種や神格の類がいなくなるこの機を虎視眈々と狙っていたのだ。
-人間とは単純なものよ。
弱き者を見れば、余程の悪党でもない限りまずはそれを護ろうとする。
それ故に、このような目に遭うのだ。
…あの「エサ」も、我が瘴気の中でわざわざ生かしてやるのには苦労したが、最後にあの憎き茜を罠に嵌める役目を果たしてくれれば、最早用済みぞ。
さて-
動かぬ乱麻の頭を覆うかのように、おぞましき色の猛毒粘液を滴らせる、牙だらけの口を開ける…!
-その血肉、我に捧げるがよい-
そして…その細かな牙が、彼女の首を噛み千切ろうと迫る刹那。
「鱗を
裂帛の気合と共に、猛毒粘液網を脱したその姿に、モサが驚く暇もなく…居合の構えから抜き放たれた漆黒の刃が空間を薙いだ。
その巨体が、金切り声のようなおぞましい絶叫を上げ、胸元に穿たれた一文字の傷跡から毒々しい色の体液を吹いてのたうつように後ずさった。
-な…なんじゃとおお!?
き、貴様、何故動ける!?-
狼狽するおぞましい声に乱麻は応えず、黒い刃を青眼に構える。
そして…彼女の脳裏に声が響く。
-改めて我が名を教える。
我は「羽々斬」、普通に振るうだけなら、只の刀と然程変わらぬ。
だが…我が名、その真なるところは鱗を
「竜」を名乗る者、その鱗の護りを
「ぴったりだね、こいつをやっつけるには」
彼女は薄く笑みを浮かべ、青眼に構えたその刃をさらに、新陰流の上段脇構えに構える。
それは、あの夜、恐怖と共に封じ込めた記憶にあるはずの、かごめが見せた構え。
声にならぬ怨嗟の咆哮を上げながら、猛毒の牙が空間の瘴気総てを纏って猛然と突っ込んでくる…!
「乱麻ッ!!」
透子が飛び込んできたその光景の先で、巨大な蛭竜と、乱麻の繰り出した「卸し焔」の一閃が交錯する。
一瞬の静止の後。
モサの巨体を頭から縦に引き裂くように、緋の線が走り…そして、耳触りに響く断末魔と共にその巨体が火柱に包まれた。
…
根源たる蛭竜が滅び霧散する瘴気の中で、力を使い果たし崩れ落ちる乱麻の身体を、透子が駆けよって受け止めた。
その腕の中で、乱麻は、少し申し訳なさそうに目を伏せるが…一呼吸置いて、強い意志を秘めた眼差しで透子を見つめる。
「透子さん。
わたし、やりたいことがみつかったよ。
…わたしは…あの金色をやっつける」
「乱麻?」
戸惑う透子に、乱麻は小さく笑って答える。
「…最初は、押しつけられたことかもしれない。
でも…わたしは…透子さんが見てきたような、あんな悲しい景色を、もう二度と見たくない。
わたしの知る、みんなに、もう二度と…見せたくはない。
だから…わたしはまず、わたしの中にある「
その瞳には、小さいながらもはっきりと強い光がある。
彼女が、そうしっかりと自分の意思で決めたのだと、透子はそれを理解した。
透子は、ただ無言で頷くのが精いっぱいだった。
言葉に出してしまったら、泣いてしまいそうだったから。
この少女の決意を、自分の涙で濡らしたくないと、そう思ったから。
…
…
それから数日後。
乱麻、透子、そして茜の三人は、さくら野の蛭騒動に巻き込まれた少女を見舞い、揃って倉野川病院の門をくぐった。
「あの娘はもう大丈夫じゃろう。
とはいえ…お主がおらなんだら、わしの浄化だけでは間に合わなんだったかも知れん。
改めて、お主には礼を言わねばならぬな、透子」
「あの子を全身凍結させろって言われた時は、あたいも耳を疑ったがねえ。
チルノのカエルいじめじゃあるまいし」
暦は既に七月に入り、梅雨も去ってこれから夏を迎えようとする日差しが、苦笑しながら肩を竦める透子を中心に、三人の姿を照らしている。
茜は半袖の黄色いシャツにオールオーバー、透子は先日乱麻が来ていたモノと同じ書体で「大往生」と大書された白のTシャツに、氷の結晶の模様をあしらったロングスカート。
そして…乱麻はトレードマークとも言える黒い鍔広帽をかぶり、着古したものと思しき水色の半袖シャツ、少し大きめのジーンズを身につけ…そして、脇のポケットには袋に入っている刀を差した、暗めの色のリュックサックを背負っている。
そのジーンズはもとより、着ているシャツも背負ったリュックも、実は全て透子が「使わなくなったから」と、乱麻にあてがったものだった。
モサという発生源を失った「領海」…すなわち蛭竜が作りだす、その最も活動しやすい環境を再現する一種のテリトリー…と瘴気は、ほどなくして警官隊と、駆けつけたかごめの手により除去、浄化され、騒動は一応の終結を見た。
結界で遮断された周辺には、茜の懸念したような「分身体」の存在もなく、大牙は師の戻りを待ち、その件を報告するにとどめた。
呼ばれることのなかった烈達は、この件に乱麻が関わっていたとは夢にも思わず…ただ後に、茜と大牙、そして居合わせた透子の手により被害の拡大が喰いとめられたとだけを知るのみだった。
モールに取り残された少女はというと、乱麻に発見された時点で半ばモサの瘴気による操り人形と化しており、最後は命を失う寸前の状態で茜を虜にするべく配置された毒蛭の巣の中にいたが、茜はその罠を察知し、透子に少女ごと部屋全体を凍らせるよう指示した。
いずれにせよ、重篤な状態となった少女を救うには一度仮死状態にするしか手はなく、透子は茜の指示を信じて己の魔装をその場で最大解放し、極低温の冷気で毒蛭を全て凍死させるとともに少女を氷漬けにすると…茜は、心停止状態になった少女の身体へ一気に浄化の炎を流し込む荒業で、その瘴気を一気に浄化して少女の命を救ったのである。
少女は茜の力を受けた反動で、その後搬送された病院で数日間の入院を要したものの、搬送されて半日、意識を取り戻す頃には命に別条がない状態まで回復していた。少女もその母親も、身を呈して命を救ってくれた乱麻達に何度も、涙ながらに感謝の言葉を述べていた。
そして…もうじき少女が退院できるということなので、三人は見舞いに訪れ…。
「乱麻よ。
本当に、お主はそれでいいのじゃな?」
一歩先往くその背に、茜は問いかける。
乱麻は振り向かなかったが、迷うことなく「はい」と、頷いた。
「一か月したら、必ず戻ります。
そうしたら…私を、あの世界へ。
それまで、私はもう少し独りで、自分を見つめ直してみようと思います」
「そうか」
鷹揚に頷く茜。
乱麻はあの戦いの後、療養も兼ねて数日透子の部屋に滞在し、そして、茜を交えて自分の意思を切りだした。
乱麻は、自分の意思を確固たるものにするため、しばらく一人で妖精国や幻想界、魔界を巡る旅に出ると言いだしたのだ。
透子も茜も戸惑ったが、乱麻が「内なる亡霊」を受け入れ、今はそれを…金竜を討つことを目的として生きるが…そのあとは、自分のような悲しみを持った存在を救うために自分のチカラを活かしていきたいと、その意思を告げると、ふたりはそれ以上言う言葉もなく、ただ、頷くだけだった。
そして少女を見舞ったその足で、乱麻は旅に出ることに決めたのだ。
乱麻は一度振り返り、ふたりに一礼すると…そのまま踵を返して駅の方へと歩いていく。
透子と茜はしばらくその後ろ姿を見送っていた。
そして、茜は思い出したかのように問いかける。
「そういえば透子よ。
お主、あの日一体何を仕出かそうとしておった?」
「何を、って?」
「乱麻がさくら野へ行ったあの日のことじゃ。
お前はわしまで呼びつけ、あ奴に何をさせようとしていたのか…今思えばそれを聞いておらなんだでな」
ああ、と、透子も今更のように唸る。
そして…苦笑しながらその理由を告げる。
「かごめさんの真似じゃねえけどさ…あんたを立会人に、あいつと本気で戦ってみる心算でいたのさ。
つぐみから聞いたんだよ。
…タルシスで諏訪子さんがコワれちまった時、かごめさんは荒療治と知りながら、諏訪子さんを強引に連れ出して「暗国ノ殿」で生きるか死ぬかの討伐大会に参加したってのをさ。
もしかしたら…そういうのの方がうまくいくんじゃねえかって。あたいもどうかしてたんかな」
思っても見ない答えに目を丸くした茜であったが…呆れたように溜息を吐く。
「どういう根拠があればそんな答えが出るものか…かご姉のトンチキなど、
…じゃが、過程はどうあれ、結果的にはそうなってしまったような気がするがの。
改めて、お主には感謝しておるよ…どうじゃ、その礼の一部分と言ってはなんじゃが、今日は一杯奢るぞ? お主飲めるんじゃろう?」
「それ茜さん個人が飲みたいだけなんじゃねえの?
…まあいいや、そんじゃ、乱麻にやった服代の分ぐらいは、美味い酒飲ましてもらおっかな」
からからと笑う茜に苦笑しつつ、透子は再度、乱麻の去って行った方を見やる。
(あんたなら、きっとやり遂げられるよ。
…それに、あんたには大切な「仲間」だっているんだ…それを、忘れんなよ)
それは、乱麻にだけ告げられたものだろうか?
その真実は、透子のみが知る。