長湖。
夏は南国、冬は寒帯と化す、中華学園都市最大のミステリーゾーン。
そのほとり、揚州学区を縄張りとするのは、多くの水上スポーツ系クラブと少数の文科系クラブから構成される長湖部であり、夏休みもこのあたりで何かしている奴らが居れば、大概は長湖部の人間である。

その校区に面したビーチからやや外れて、丁度海で言えば磯のようになった岩場に、ひとりの少女が釣り糸を垂れている。
年季の入った麦藁帽子を目深に被り、淡い色のパーカーにキュロット、足首までバンドのあるしっかりしたつくりのサンダルを履いて、一見釣り人らしからぬ風体だが、その竿は名のある職人が作ったと思われる竹製の良い品物だ。
不意に釣竿の先が僅かに揺れ、次の瞬間一気にしなる。

「よし来た!」

少女は両の足を、岩の窪みに引っ掛けて固定する。
そして手元のリールで糸の長さを細かく調整しながら、湖面を走る影の動きをコントロールしようとする。そして、機を見て一気に引き上げた。

湖面から引きずり出された影は、ゆうに50センチを越える。
なかなかの大物であるが…それはなんとナマズだった。


-長湖の夏休み-


「なんか珍しいの釣れましたね、徳潤さんっ」

少女がその声に振り向くと、ビーチとの境目にひとりの少女が居た。
白い帽子を緑成す黒のセミロングに乗っけて、きちんと着飾れば様になるスタイルの良い肢体にスクール水着を身に着けている。

「よお伯言、泳ぐのが好きじゃないあんたがそんな格好でどうしたんだい?」
「妹たちの付き添いですよ。
それに、私泳ぐのが得意じゃないだけで、水遊びは嫌いじゃないですよ」
「ふ〜ん」

岩場に陣取っていた少女…徳潤こと敢沢は、会話に興じつつも手先では釣ったばかりのエモノの処理を同時進行で行っている。
なかなか器用なものだが、ナマズの体に容赦なくかつ的確にナイフを突き立てているあたり、キャッチ&リリースという概念は彼女の脳裏に存在しないらしかった。
伯言と呼ばれた少女…長湖部の実働部隊総帥・陸遜も、その光景を目の当たりにしてさして驚いた風を見せていない。苦学生で有名な敢沢がこうして食料を調達していることを知っていたからだ。

「というか徳潤さん、ナマズって食べられるの?」
「知らんのか。
泥臭いのを何とかしさえすれば、味が淡白だからどんな料理にしても結構いけるんだよ、これが」
「へぇ」

程なくして動かなくなったそのエモノをクーラーボックス(こちらも釣り竿同様、彼女が持つ中では数少ない値打ち物だ)に仕舞い込むと、敢沢は再び糸を湖中に放ろうとした。

「あ、そうだ。
良かったら徳潤さんもご一緒しませんか?」
「あたし? そうだなぁ、どうするかな」

その誘いかけに、彼女は一瞬迷った。

この日は思いのほか好調で、さらに朝から釣りに興じていたお陰もあって、漁果としては十分である。
同じ苦学生仲間の歩隲との交易材料も問題はない。夜には夏祭り会場でのバイトがあったが、祭が始まるまでにも十分時間があった。
彼女自身もひと泳ぎしてから帰る気でいたので、実は水着だって着込んでいたりする。

「う〜ん、バイト行く前にひと泳ぎするつもりだったからな。じゃあ、仲間に入れてもらうかな」
「決まりですね。じゃあ、行きましょう」
「ん」

釣り道具一式を担ぐと、敢沢は岩場を軽々と飛び降りてきた。





「おらおら、気張って泳げ〜! 正明と承淵が赤壁島廻ってきたぞ〜!」

ボートの上から一人の少女が檄を飛ばす。
その視線の先、ビーチから沖合いの赤壁島の中間くらいの地点に、泳ぐ少女たちの一団がある。
ボートをこぎながら檄を飛ばす暗紫髪のショートカットは、今年卒業を控えながら、水泳部長として後輩の育成に余念がない凌統である。


水泳部は毎年この時期になると、長湖部夏合宿とは無関係にほぼ毎日、揚州校区ビーチから赤壁島までの片道5キロを往復する遠泳を行うようになる。
無論、学園都市全体で始まる祭の開始日であったとしてもそれは変わらない。
単純計算では10キロの遠泳だが、実際は赤壁島を周回して来るので実際にはプラス1キロ泳ぐことになる。
全国に誇る強豪はこのようにして育て上げられるのだが、このハードさゆえに途中で音をあげ、夏の間に部を去るものも決して少なくない。

とはいえ、この年はいまだ脱落者を発生させていなかった。
その鍵を握っているだろう二人が、少女たちとすれ違っていった。

僅かに先頭にたつ栗色髪の少女、それに追随する狐色髪の少女。
それぞれ高等部に入って間もない一年生の留賛、来年に高等部編入を控えた中学三年生の丁奉である。
水泳部に在籍する少女たちの中でも、その平均年齢からみればずっと下。そのふたりに対する負けん気が、プラスの方向に働いている所以である。
とはいえ、それでも他の少女たちとそのふたりの差はかなりのものであった。


「う〜ん…やっぱり二周目となると、あのふたりにはついていけないもんかなぁ」
「ま、あのふたりが異常なのよ、ぶっちゃけた話」

そのふたりを追ってきたらしい一隻のボート。
そこに、ポニーテールの少女がひとり乗っている。

「遅かったじゃない、文珪」
「遅いも何も、あのふたりが早すぎるんだ。
ボートでついて行くのも精一杯だよまったく」

凌統のボートに自分のボートを横付けすると、その少女…潘璋はボートに仰向けでひっくり返った。

「情けないわねぇ…去年まで部下だった承淵に対してあんたがそんな体たらくじゃ」
「それでもいいよぅ〜、あたしも〜疲れたぁ〜」

呆れ顔の凌統に、ボートにひっくり返ってしまう潘璋。
水泳部の少女たちも、普段滅多に見られない潘璋の情けない姿に、野次馬根性むき出しで遠巻きに眺めている。

「あ、こらあんたたち、止まってないでさっさと泳ぐ!
さもないと、完泳のジュースとスイカ、やらないよ!?」

凌統の一言に、慌ててコースに戻る少女たち。
その後を、数隻のボートが追いかけていく。

「ったく…あんたもあんたよ文珪。
普段のあんたの態度もどうかと思うけど、そんなんじゃ示しつかないわよ?」
「へいへい、解りましたよ〜…って何やってるのよ公績」

ふてくされた様にむっくり起き上がる潘璋。
みれば凌統、ボートの艫綱を潘璋のボートに括り付けている。

「あたしも泳いでくる。
これ、岸につけといてくれる? 礼ははずむわよ?」
「別にいいけどぉ」

その返答を聞いたか聞かずか、パーカーを脱ぎ捨てて水着だけになり、湖中へ消えた。
その姿を見送ると、やれやれと言わんばかりの表情で肩を竦め…やがてビーチに向けてボートを漕ぎ出した。





「者ども、準備はいいかぁ!?」
「おー!」
「よーし、総員突撃ぃー!
あたしに続けー!」

先頭、跳ね髪の少女がビニール製のイルカともシャチとも取れぬモノを小脇に抱えて湖面へ駆け出すと、そのあとに少女たちがときの声をあげて追随していく。
皆、或いは浮き輪を装備し、また或いはビニール製のビーチボールを抱え、次々に沖へ向かって泳いでいった。
先頭切った少女は水色の地に白抜き水玉模様のワンピース、それの真後ろにいた三つ編みの少女は「PARQUIT☆CIRCLE」という白抜き文字が胸元に入っている橙のハイネックワンピースだったが、あとの少女は揃いも揃ってスクール水着だった。

「あんたたちー、あんまり沖のほうまでいっちゃダメだからねー!」

浜にひとり取り残された格好になった陸遜が呼びかけるが、聞いているのかいないのか。
そこへ荷を置いてきたらしい敢沢も合流する。

苦学生の彼女ではあったが、着ているのはそれなりに値の張りそうなデニム地のセパレート。
彼女はどうやら水着にもそれなりにお金を使うらしいが、恐らくはいざとなれば下着兼普段着としても使うのかも知れない。それに関しても本人はもとより周りも最早そこまで気にもしていないだろう。

「しかしまぁ…あれだけスク水だらけだと学校の授業で来てるみたいだな」
「私も正直な話、徳潤さんがそんな水着持ってるなんて意外でしたけど」
「折角の一張羅だからな、着れる時に着ておいてやらにゃあ。
あんたもモノはいいんだから、たまにはお洒落に気を使ってもいいんじゃないか?」

陸遜の皮肉を鮮やかに皮肉で返す敢沢。

「あはは…でも私、どうも着慣れた服じゃないと落ち着かなくて」
「気持ちは解るがね。
まぁ、着れる内に着ておくと言うなら、それなんかその典型かもしれないしな」

なんとも女子高生らしからぬ物言いではあるが、敢沢のそれはバイト環境で培われたものであることは想像に難くない。
あくまで軽口に過ぎず、どこぞの諸葛亮のような趣味人的な発想ではないし、敢沢自身もそのような考え方は持ち合わせていない。それでも女子高生らしからぬ感性であることは否めないのだが…。

「それに考えてみれば、うちの制服ってどの学校のと比べても割高なんだよなぁ。
そう考えると、タカがスク水でも着ないのは何か勿体無い気がするなぁ」

難しい顔をして考え込む敢沢。
やはり、最終的にはどこかで苦学生の顔が出てきてしまうらしい。

「まぁ、そんなこと考えてもしょうがないですよ。
それより、バイトの時間は大丈夫ですか?」
「夜からだから四時くらいまで余裕だな」
「え…今日の夜に?」

その答えに小首を傾げる陸遜。
やっぱり、苦学生の彼女には祭を楽しむ余裕もないだろうか…ということに思い至ったようだ。

「じゃ、折角だから今のうちに遊んどきましょう、ね?」

手をとって子供のようにはしゃぐ緑髪の少女の笑顔に、敢沢はふと、今年の年明けに起こった出来事を思い出していた。


長湖部と帰宅部連合の全面戦争。
甘寧や韓当を始めとした百戦錬磨の大将ですら成す術ないその危難の矢面に、自分がこの少女を引きずり出したことを、敢沢は未だにそれが正しかったかどうなのか考える時があった。
結果的にその行為は長湖部を救うことになったのだが…そのために嘆き悲しんだ少女がいたことを知っていたから。

だが、彼女は思う。
今こうして、この少女が笑顔で居れるのだから、それならそれでいいじゃないか…と。


「ああ、いくか」

敢沢は陸遜の手に惹かれるまま、水際で遊ぶ少女たちの一団に駆け込んでいった。





「何やってんのよあんたたち」

祭観覧の準備と言うことで、まだ四時前のこの時間に引き上げにかかっていた陸一家と敢沢。
その道中、先頭きって駆けていったはずの数名が何かをもの欲しそうに眺めているのを見て、陸遜は聞きとがめた。

「いいなぁ〜」
「あたしたちも食べたいなぁ…」

陸遜の幼い妹たちはそれを意に介している風がない。
その視線の先には浜辺の休憩所、その中でわいわい言いながら手にとっているものしか目に入っていないらしい。

「ありゃあ水泳部の連中だな。
朝から居たみたいだけど奴らも引き上げかな」
「みたいですね…ほらあんたたち、こんなところで道草喰ってないで、とっとと帰るわよっ」

そしてとりあえず手前にいた、最年少の妹たち四人の水着を引っ張ってその場から引き剥がそうとする陸遜。
だが、必然的に抗議の声があがる。

「嫌っ! あたしたちもスイカ〜!」
「うち帰ったってどうせそんなもんねぇんだし、少しぐらいご馳走になったっていいだろ〜?」

年長組のひとりで跳ね髪の少女−陸凱がそのうち、中央にいた陸機、陸雲の双子を奪い返してしまった。

「馬鹿言わないの!
大体あれは水泳部の差し入れで持ち込まれているモノよ、あんたたちの分があるわけないじゃない!」

傍らにいた陸抗に捕らえた妹たちをあてがい、走り去ろうとした陸凱の首根っこを捕まえる陸遜。

「聞いてみなきゃ解るもんか!
大体伯姉だってスイカ大好きのクセして…見た途端に口元、涎垂れてるじゃん!」
「え、嘘ッ!?」

陸遜は慌てて口元に手をあてがうが…それで束縛から脱した陸凱は双子を抱え、まっしぐらに休憩所に向けて駆けていった。

「へっ、嘘に決まってるだろ〜♪」
「…っ…こらあー!」

そして真っ赤な顔をしてそれを追っかけていく陸遜。
残された年少組の陸晏、陸景のふたりもそれに続く。

しばらく呆然と眺めていた敢沢も、

「あたしたちも行って見るか、幼節、敬宗?」
「そうですねぇ」
「いこいこ、もしおこぼれに預かれても、早く行かないとなくなるかもしれないし」

陸抗の返答に苦笑しながらも、残された少女たちを促してその後に続いた。





そしてそれから数刻。

「すいません先輩、私たちまで厄介になって…」

水泳部の面々に混じって、陸遜率いる陸一家の少女たちが、スイカを貪っていた。
陸凱が幼い陸遜の妹たちを扇動して、水泳部長の凌統とマネージャーの吾粲に食い下がった結果である。
末妹の陸機、陸雲に何かしら仕込んで、水泳部のお姉さま方の気を引くなどと、この親戚の娘の抜け目なさはかなりのものらしい。

「気にすんなって、余るくらい用意してたから丁度いいくらいだしな」
「そういうこと。
折角だから、あんたも喰っときなよ」

陸遜にとっては同窓の友である吾粲に一切れ宛がわれると、遠慮していた素振りだった彼女も反射的に食いついてしまった。
遊びつかれて水気と甘味を欲していた身体は正直なものである。

「そういや、今日から祭だけど、伯言たちは行くの?」
「うん。
妹たちは妹たちで行くみたいだから、私は部長たちと行くつもり」
「あたしはその会場で子山とバイトだ」

吾粲の質問に対する敢沢の答えに、合点のいった様子の陸遜。

「あ、じゃあ夜のバイトってそれ?」
「ああ。
結構いい金になるみたいだし、祭の雰囲気も楽しめて一石二鳥だ」
「あ〜、それってなかなかいいかもしれないなぁ…」

自他ともに認めるケチ(当人は「倹約家」と言って憚らないが)の潘璋もそれに食いついてきた。

「文珪さんもやってみます?」
「う〜ん…ちょっと考えとく」

考え込んだ風を装う潘璋に、凌統が

「やめとけやめとけ、怠け者のあんたじゃ番台の留守番無理だ」

と辛辣な一言を投げ込んできた。

「うわ、何か酷いこと言われた〜」

決して広くない休憩所は、少女たちの笑い声で一杯になった。
長湖の畔は、今日も平和そのものだった。



続く?