解説 陳羣


-学三設定-

学園監査部にも多くの有力者を輩出している予州校区の名門・陳家のお嬢さんで、一年生の時から蒼天生徒会所属の風紀委員的な存在「清流会派」で書記を務める少女。
「綱紀粛正こそ我が天職」とばかりに、ビシビシと風紀違反者を取り締まる真面目っ娘であるが、そのくせ一時期劉備に惹かれて行動を共にした事もあるという不思議な感性も持っていた。また秘話に類することであるが、長湖部のある人物と、ある事件をきっかけに終生の親友同士となったという逸話もあり、後年、蒼天水泳部の部長を務め、水上部隊総括として軍務に携わったこともあったが、さほど泳ぎが得意でもなかった彼女がそんな役職に就けるだけの最低限のスキルを身につけた裏にも、その「友人」の存在が関与しているらしい。
蒼天生徒会が曹操率いる「蒼天通信」の面々によって補佐を受けるようになったあとはそのまま風紀委員長を勤めると同時に、組織作りの面でも頭角を現し始めた。その一方で曹操軍団きっての不良参謀・郭嘉の素行の悪さに常に毛を逆立てており、ことあるごとに突っかかっては軽くあしらわれている。この露骨な取り締まりぶりは周囲に眉をひそめられることも多々あるが、曹操も陳羣の潔癖さをよしとして(あるいはその様子が内心面白いので)、笑って済ましている。だがそんな「天敵」郭嘉が難病の為に夭折すると、表面上は普段と変わらずとも陰では相当に堪えた様子を見せ、以後その墓前に佇む姿も多く目撃されるようになったという。
それまでの「清流会派」の中心人物であった荀彧・荀攸が引退すると彼女がその中心人物となり、曹操から後見を託された曹丕が生徒会長となると引き続き「新生蒼天生徒会」の中核を担うべき人材として任用された。特に彼女が残した業績の中でも、政治体制の強化を図るべく提案・施行された「九品法案」は以後の幹部候補選出基準となり、東晋生徒会における「人物ランク採用法」の大元となった。陳羣はこのように内政面、特に綱紀取締りでの活躍が目立つが、先述したとおり実働部隊の指揮経験もあり、「運動音痴」とイメージする者も多いが、実際は荒事以外オールマイティーにこなせる才媛である。
幼い頃からあまりに勉強に打ち込みすぎた反動か視力は非常に悪く、あるとき曹操が悪戯で奪った彼女の眼鏡をかけてみたところ、あまりの度の強さに酔ってベランダから危うく転落しそうになり、何も見えない陳羣も方々の壁に激突しまくるという悲喜劇を引き起こしたという。ちなみに年の離れた妹である陳泰は、校内ではあまりにも厳しく口うるさい姉との遭遇を可能な限り避けようとするが、プライベートにおいては非常に仲が良いという。その陳泰の情報によると、幼い頃に厳しくしつけられた反動なのか、わりと自由の許される現在学外ではわりとはっちゃけている(勿論最低限のマナーは守るが)、とのことである。


-史実・演義等-

陳羣 ?~二三五
字は長文。潁川郡許県の人。
潁川陳氏はそれと知られた名門の家柄で、祖父の陳寔、父の陳紀も名声があった。祖父の陳寔は陳羣の幼い頃から特別の評価をしており、常々「この子は必ず我が一族を盛んにするであろう」と述べていた。孔子二十世の子孫であった孔融は父の陳紀と親交があったが、この話を聞きつけた孔融は陳羣と知遇を得ると、改めてその才能を祝うべく陳紀の元へ挨拶に出向いたという。このことで陳羣の名は世に知られるようになった。
劉備が予州を領有していた際、陳羣を召し出して別駕に任じ、陶謙が没して劉備が徐州に移った際にも引き続き任用した。そして劉備が袁術を討つべく軍を起こした際、陳羣は「袁術の勢力は依然強大であり、またこの状況で出兵すれば(当時劉備を頼って居候していた)呂布が必ず将軍の背後を襲うでしょう」と諫めたが、劉備はその意見を容れずに袁術討伐を断行し、果たして陳羣の危惧したとおり呂布が劉備の留守に乗じて徐州を奪い取ってしまった。劉備は陳羣の諫言を聞き入れなかったことを後悔したが後の祭りであり、呂布は呂布で陳羣を勝手に任官し召し出そうとしたが、父の陳紀共々それを受けず避難した。
呂布が敗死すると曹操の任用を受け、司空西曹掾属に任じられることとなった。そうして間もなくの頃、ある人物が推挙されて曹操に仕える事になったが、陳羣はその人物が性悪で後に災いをなすだろうと警告したが曹操は聞き入れず、その人物を任用した。しかしその人物は結局咎を受けて処刑され、曹操は自分の不明を陳羣に詫び、彼に人材を推挙させた。この時陳羣は、後に魏の尚書令になった広陵の陳矯を始め多くの人物を推挙したが、彼らは皆名声を挙げ、人々は陳羣の人物鑑識眼を高く評価した。また、同じ頃に曹操が肉刑(儒教的観念に基づいた、命を奪う代わりに腕や鼻など五体の一部を切断する等の肉体的に傷を負わせる刑罰)の施行について陳羣に意見を求めると、彼は父の陳紀の持っていた「それぞれの罪科に応じた部位を傷つけ、代わりに命を助けることで教化を施すべき」という主張を引き合いに出して「現在は鞭を用いて罪人を打ち殺す法が肉刑の代わりにされておりますが、それは人の手脚をその命よりも軽んじております」と意見を述べている。この件は他にも様々な意見が挙がったこと、また政情不安などを理由に沙汰止みになっている。
曹操が魏公になり魏が建てられると御史中丞の位にまで出世し、朝廷にあっては好悪によって判断する事はなく、常に名誉と道義を重んじ、道義にはずれた事を人に押し付けなかった。曹丕がまだ太子だったとき、彼は陳羣に対して深い敬意をもって接し、友人に対する儀礼をもって処遇した。二二〇年に曹丕が王位に就くと、陳羣は建議によって「九品官人法」を制定した。この法制は官職を九等に分け、地方の名士の推挙に応じて官位を与えるという名士寄りの法制で、後の晋の貴族制の基礎となった事でも知られている。
孫権征伐が行われると節(特権的な軍権)を与えられて水軍を統率し、更には鎮軍大将軍となり、司馬懿や曹真とともに遺詔を受け、明帝曹叡をよく補佐した。太和年間の頃に曹真が蜀攻めの軍を発したい旨を上奏してきたが、陳羣はかつて曹操が漢中の張魯を攻めた際に行軍が非常に困難であったことなどを理由にして反対し、曹叡もその意見を嘉して曹真の上奏を却下している。その後も数度曹真が上奏する度に陳羣が反対意見を述べて取り止めさせるという塩梅だったが、根負けした曹叡が蜀攻めの許可を出すと、果たして間もなく大雨により進軍自体が不可能になり、陳羣の上奏を受けた曹叡の勅命により曹真は一戦も交えることなく引き上げることになってしまった。
青龍四(二三五)年逝去、後に靖侯と諡された。享年については明らかではない。「魏書」によれば陳羣は政治の得失を説く密奏を度々行っているが、封緘した上奏文の草稿は逐一破棄していたため、存命時の陳羣は公の場では物静かであったこともあり、論者の中には「高官でいるクセになにもしていない」と非難するものが多数居た。ところが彼の死後、勅命によって群臣の上書を編纂した「名臣奏議」が世に出ると、公にならなかった陳羣の上奏文の多くがそこに記載されており、その諫奏を見た朝廷の人士達は皆感嘆したという。
彼の子には後に雍涼諸軍事として姜維を大いに苦しめる名将・陳泰がいる事でも知られる。前述の「九品官人法」の絡みで世界史の教科書に名前が出ることもあるが、一方で演義ではほとんど出番がなく、曹丕の太子四友の一人として名前が挙がる程度である。


-狐野郎が曰く-

誰が呼んだか「最強の学級委員長」。このキャッチコピーだけでも学三陳羣とは、と言う問いに対する八、九割方の答えが出ているんじゃないかと思う。個人的には諸葛瑾と並ぶくらい玉絵では性癖にぶっ刺さるデザインで、正直彼女(というか「史実的には」彼か?)の事をもっとよく知りたい、と思ったのが正史三国志購入の原動力になっていたまであると思う。いや、正直現在資料が散逸したのが惜しいぐらい玉絵版陳羣めっさ可愛いんですよ(*´ω`*) あと生真面目な風紀委員とか学級委員長タイプという昨今のラブコメその他学園ものでは実際絶滅種めいた存在というのが非常に高ポイントであることも忘れてはならない。いやマジで。
可能な限り玉絵に忠実に再現できてるかどうかはわからないが、一応玉絵版だと黒縁眼鏡でなおかつセミロングではなく完全なおかっぱ頭だったはずである。あといわゆる「姫カット」なのだが、狐野郎はこれを非常に苦手としているのでかなり練習はしている。2020年末に(ポップンミュージックの)鈴花をやたら描きまくってたのはある意味その練習を兼ねていたのかも知れないしそうではないかも知れない。
世界史的にも実は続く晋代においても「貴族制」の元になった法案「九品官人法」を作った人であり、演義での影の薄さに反して実際はものすごい業績を成した人でもあり、そうかと思えば持節で水軍まで統率したり、いわゆる幕府のようなものを作る権限まで与えられてると、武官としても何気に高い地位を与えられてたりする。当時は司馬懿も居たわけだが、官職とそのポジションからもその司馬懿とほぼ同格だったわけだ。その割には実際戦に出てでかい功績を立てたという話は聞かないが、後に姜維とドンパチやって名将として名を残す陳泰の親父でもあるので、ひょっとすると伝に残らないところで色々功績を立てていたのかもわからんね。曹真の蜀攻め要請に度々却下を出してたり、大昔に劉備に袁術討伐の愚を説くなど、戦略眼は決してなかったわけではないこともうかがえることだし。とはいえ曹操と肉刑について論じたときに「命だけは助けてやってもよくね? その代わりに肉刑で自省させとけばええやん」とも取れる、(当時の儒教的観念に照らせば慈悲深い?とはいえ)なかなか物騒なことを言ってたりもするんだけども…。
ちなみに学三ではメインコンテンツとなっている(?)郭嘉との確執については、実は正史郭嘉伝に記載があるガチの史実ネタである。とはいえどっかの酒乱君主と御意見番()みたいな大人げないバトルを日頃から繰り返してたというわけでもなく、曹操が間に立って双方の顔が立つように取り持ったような風だったようだ。案外本当に、学三環境みたく「潔癖症の学級委員長VSデキる不良生徒」みたいな関係だったのかも知れない、と思うと、「萌え三国」っていうジャンルは生まれるべくして生まれたんじゃないか、などと思ったりするのだ。もっともメジャーな萌え三国は大体有名どころしか出てこねえんだけどな。ちなみに「死亡」という要因で戦線離脱がない「学園三国志」において、(本家では)唯一「夭折」によって史上から姿を消すの郭嘉との微妙な関係については、既に「名作」といっても過言でないSS作品が存在もしていた…いたのだが、本家資料が散逸してしまった今となっては最早読む手段もない。あくまで二次創作的な話ではあるが、狐野郎が「ある人物」と彼女の出会いを描いたSS「夏影の狂詩曲」で、それを下敷きにした展開を描いているので、「萌え三国」かつ史実無視の二次創作であること許容できるのならご一読頂ければと思う。まあそもそも元の話も史実とは…おっと誰か来たようだ