解説 魯粛
-学三設定-
長湖部の誇る鬼才の一人。もともと徐州校区でブイブイ言わせていたヤンキーで、奔放な性格と人をくった態度のせいであまり評判がよくなかったが、実家が途方もない資産家でいつもカードを数枚持ち歩いていた。周瑜や孫策と同学年で、周瑜とは顔見知りだった。
長湖部に関わることになった切欠は、長湖部再建に奔走する周瑜に協力を求められた事だった。ムダに人間を見る目だけはある袁術のスカウトに対しては堂々とシカトしていた彼女だが、周瑜に連れられて孫策の元に出向いた魯粛は速攻で意気投合し、資金援助の要請にも二つ返事で承諾して渡した財布の中には、とある有名クレジットカード会社のブラックカードが入っていて周囲を仰天させた。とにかく型に縛られず自由奔放、だが一方で学業のカテゴリにおいて至極優秀、それ以上に非常に高い経済学の知識を有しており、初等部の頃からこっそり株に手を出してとてつもない貯金を有していたとも言う。
孫策がリタイアした際にも孫権の器量を見込んで引き続き長湖部の幹部として協力する事となり、曹操が南征を行うと周瑜共々徹底抗戦を主張。周瑜と共同戦線を張っていたものの実はその構想自体は周瑜と方向性を異にしており、周瑜が南北に学園を二分して統一の機を伺おうとしたのに対し、魯粛は学園をみっつに割り、湖畔周辺の学区で独立政権を樹立し別に天下統一には拘らないという方針であった。その意味で概ねの戦略構想が共通していた諸葛亮を独断で招き入れ、その協力もあって長湖部は蒼天会と戦い独立を目指す方向になった。赤壁島決戦に至るまでは諸葛亮と供に裏方で様々な暗躍をして勝利に貢献していたというが、その最中に諸葛亮の「草蘆対」構想の真の姿を知った魯粛は、やがて諸葛亮によってもたらされるだろう様々な危難を予感したという。
赤壁島決戦後、荊州学区で劉備達が暗躍を始めた事に感づいたときには既に後手に回されている状態だった。挙句時期を同じくして周瑜がリタイアしたことによって、魯粛は副部長の激務をこなしつつ諸葛亮の「ナメた振る舞い」を潰すべく最前線の地で時に戦場に立ち、時に会談によって長湖部の優位を保つべく尽力したが、降って湧いた「学園監査部指令による強制留学」により学園を離れざるを得なくなってしまった。天命と思った魯粛は後事を呂蒙に託し、規定により階級章を返上し六ヶ月の海外留学のため課外活動の表舞台を去った。これは自分の戦略構想に魯粛の存在が邪魔になると判断した諸葛亮が仕組んだものであると言うことが後年明らかになるのだが…諸葛亮の誤算は、魯粛一人を除く程度で長湖部を好きに操れると思った見識の甘さだったと言えるだろう。
留学後は再び長湖部のお膝元である建業棟の一般生徒となり、学園課外活動への再参加は認められなかったが、以後も孫策、甘寧らとつるんで長湖周辺に騒動を巻き起こしていたようである。しかしその多くの真相が闇から闇へ葬られた裏には、魯粛の暗躍があったかららしい。
-史実・演義等-
魯粛 一七二~二一七
字は子敬、臨淮郡東城県の人。地元でも裕福な家の生まれで、父を早くに亡くしてからは祖母と共に暮らしていた。
天下騒乱の気配を察していた彼は、貧しいものへの援助を厭わず、有能な人物との交わりを結ぶことに努め、自らも武芸や兵法の修練に明け暮れていた。土地の古老たちは魯粛のそうした行動に眉をひそめたが、周瑜や孫策、袁術などいった実力者はその非凡さを高く買っていた。袁術は魯粛を召し出して東城県の県令に任じたが、魯粛は袁術の器を見限り、一族郎党を引き連れて周瑜の下に身を寄せた。また、その際に軍資金や食料に窮していた周瑜に、家にあったふたつの穀物倉のうちひとつに蓄えられた穀物をすべて供出したと言う。
後に魏の顕職を歴任する名士劉曄とは旧知の仲であり、孫策が死んで間もない頃、劉曄は手紙をやって江東の別勢力に力を貸すよう魯粛を諭したことがあった。たまたま祖母の葬儀のため東城県に帰っていた魯粛も初めはその気になっていたようだが、慌てた周瑜が孫権に引き合わせ、重く任用するよう薦めた。孫権も魯粛と語り合って意気投合し、とがめだてする張昭の言葉を聞き入れず、魯粛を厚遇した。
曹操の南征に際して、彼は周瑜共々主戦論を展開する。江東の文官系幕僚は口をそろえて孫権に降伏を説いていたが、魯粛はなんと「あなたは家柄が低いから、もし降伏なんてしたら私のような名家の出と違って酷い目に遭いますよ」となかば脅迫紛いの進言をして、孫権に開戦を決意させてしまった。そしていち早く劉備との同盟を結ぶように立ち回り、最終的には曹操の南征を頓挫させてしまった。このとき孫権は凱旋してくる魯粛を自ら迎えに出て「今君が下馬するとき、その鞍を抑えて迎え降ろせば、その功に報いたことになろうか」と問うと、「不十分です。殿が天下を統一し、天子の車にて私を迎えてくださらねば、私の功績に報いたとは言えないでしょう」と答え、孫権を大いに喜ばせたという。
周瑜が病死すると、周瑜は遺言して魯粛をその後任とし、その後も面に荊州の領有をめぐった劉備との外交折衝に腐心した。この時にとった友好的な外交戦略のせいで、演義では関羽や諸葛亮にあしらわれる無能の御人好しとして描かれている魯粛だが、実は荊州三郡の割譲の際はかなり強硬な態度を取り、呉書では関羽と一対一で会談し、完璧にやり込めて認めさせたというエピソードが残っている。正史の描く魯粛像からは、洞察力と機転に優れ、思慮深さも兼ね備えていた一代の傑物であることが伺える。
建安二十二年、四十六歳で世を去った。孫権は彼のために哭礼し、諸葛亮もその人物を惜しんで(あるいは、彼の描く天下三分の理解者を失ったことを嘆いて)喪に服したという。
-狐野郎が曰く-
周瑜もだけど、演義での扱いはとにかく悪いのは間違いない。吉川英治三国志では赤壁の戦い後の孫権とのやり取りも触れているのだが、演義原本(と横山光輝三国志)には全くそれに触れていない。ひたすら劉備に振り回され、関★羽には恫喝され、諸葛亮にはおちょくられ、そしてトドメに味方の周瑜からも無能と罵られる。実際関羽に関しては演義と正史でまったく真逆であり、横光の描写ではまるで仕方なしに返還された三郡にしても、実際には「魯粛が関羽を恫喝して」返還させたのが正史での真相なのだ。まあそんな人なので羅貫中のスットコドッコイはひたすら魯粛(と周瑜)を道化に祭り上げやがったと言うところだろう。周瑜に至っては完全な死体蹴りだしな。ちなみに蒼天航路の魯粛は赤壁の時と劉備の婚姻の時を除けばほとんど出番がなく、これはこれで不憫な扱いでは無いかと思う。劉備が「早く嫁さんの顔を拝みてえ(からはやく承諾の意を伝えてくれ)」って要請したときには「奇襲時の速度にて!!」って答えるシーン、地味に格好良いんだけどね。ちなみに正史でも演義でも、彼の死をガチで悲しんだのは諸葛亮である事は間違いあるまい。天下を伺うか地方政権として安穏を保つかの違いはあれど、基本的に取るべき戦略は共通していた「協力者」には違いなかったし。
学三版魯粛もデザインは蒼天航路リスペクトであろう。日常では呂蒙や甘寧とつるんで行動するヤンキー娘で、なおかつ郭嘉に似た「デキる不良生徒」といったイメージの魯粛像が確立していたと記憶している。狐野郎は魯粛の途中引退の理由が留学のため、と決めつけていた(「風を継ぐ者」参照のこと)が実際はどういう扱いだったのだろう。