解説 吾粲
-学三設定-
呉郡地区の一般家庭に生まれ育ったごく普通の少女であるが、頭の回転は速く、かつ身体能力も一定水準以上のレベルを持っており、偶然知り合った顧邵に引っ張られるようにして長湖部に参画。当時呉棟長であった孫河に実力を認められ、各棟の棟長を歴任して名を高め、やがて同じ蘇州組のエリート集団である陸遜や顧雍などに並び称されるほどの評価を得るようになった。はしこくもさばけた性格で、小柄ではあったが幹部や主将クラスの多くの者から一目置かれていたという。
合肥・濡須攻防戦の頃には長湖部の首脳メンバーに名を連ねていたが、参謀としても非常に有能であり、荊州奪取戦では「湖南海王」特隊を中核とする蒋欽軍団の副将を務め、その戦いで蒋欽がリタイアすると軍団を良くまとめた。その直後、夷陵回廊決戦の間隙を狙った蒼天会の侵攻の際には、呂範や賀斉らとともに防衛軍の主将として参戦し、曹休に対抗した。その際に大風によって船がいくつも転覆したが、彼女は長湖に投げ出されてしまった同胞を一身を省みず救い出したという。
その後も長湖生徒会では欠かすことの出来ない運営スタッフとして多くの重責を担うも、二宮の変において孫和の肩を持ち、しかもその状況を外地の陸遜へつぶさに告げて対応策を練ろうとしたことを孫覇派に恨まれて讒言され、処断されてしまった。このことで陸遜も愕然とし、直後に降りかかるだろう災禍を思い涙したという。
-史実・演義等-
吾粲 ?~二四五
字は孔休、呉郡烏程県の人。
孫堅の族子である孫河が烏程県長であったとき、吾粲は下役人に過ぎなかったが、孫河は吾粲の非凡さを高く評価していた。孫河が将軍になると、吾粲を推薦して曲阿の丞としたが、その後長吏に出世して地方行政に携わり、何処の任地でも高い治績を上げたという。彼は身分の低い家柄の出ではあったが、孫河の見立てどおりに才能を顕した事で、やがて同じ呉郡出身の陸遜などと同等の名声を得るようになった。
二二二年、夷陵での呉蜀の激戦の隙に乗じた魏の大攻勢があると、彼は呂範、賀斉らと共に水軍を率い、曹休の進出を洞口の地で食い止めた。この時にたまたま暴風が起き、友軍の船が転覆するなどの事故が起こった。溺れた者が助けを求めて船に取りすがろうとするのを、矛で突いて船に乗せようとしなかった中、吾粲と黄淵という人だけはそうした人々を救い上げた。ある者が「これでは船が重みで沈んでしまいます」と進言すると、吾粲は「ならばもろともに死ぬまでだ。人が窮地にあるのを、どうして放っておけるか」と言ったという。このために命を救われたものは百人以上にもなったという。帰還後は会稽太守となり、ついで呂岱と共に山越討伐なども行い、最終的には太子太傅の位まで出世した。
皇太子孫和、魯王孫覇の取り巻きたちの対立が酷くなると、吾粲は自分の正しいと思うことを誰憚ることなく主張して回り、孫権に対しては嫡子と庶子の区別を明確にし、無用の混乱を招く孫覇は指揮官として地方に出し、その腰巾着として立ち回る楊竺を追放するようにとの意見を述べた。同時に、中央から出て武昌に駐屯する陸遜にこうした状況をつぶさに伝えたため、陸遜は再三に渡って孫権に同様の上奏文を送った。こうしたことの為に吾粲は孫覇派の恨みを買い、孫覇派の讒言や中傷が元で獄に下され、誅殺されてしまったという。
-狐野郎が曰く-
演義では名前くらいしか出てこないので、近年で「蒼天航路」に登場したことで「誰?」と思った人も多かったのでは…ああまあ、あの作品だとメジャーどころの名前でなきゃそうなるだろうけど。しかし赤壁の戦いでは何故か「苦肉の策」を吾粲が考えたことになっており、しかも陳武の昔なじみということになっているし。陳武の出身地は廬江郡だから確かに地理的にはさほど離れてねえけど…うん。その後も何気にちらほらと登場し、合肥ではいつのまにか呂蒙の副官になってるし、そうかと思えば荊州攻略では蒋欽と組んでるしで呉の人物としては比較的出番が多い。王☆欣太先生は吾粲になんか思い入れでもあるんだろうか。
学三では何気に文武両道のルーキーとして登場するSSがあり、本家絵のデザインは「蒼天航路」の雰囲気を持たせつつ赤髪のチビ助という落としどころに…というかなんかそんな奴他に居た気がするけど気のせいだろうか。狐野郎はPHP文庫の陸遜の小説で登場したイメージが強かったので、陳武ではなく陸遜と昔なじみという扱いにしている。実際二宮事変でも陸遜に告げ口しまくった系の実績(?)もあるし、何よりガチの同郷人だし。