解説 呂岱


-学三設定-

実は何気に孫堅時代の長湖部にユース参加もしていた豫州学区出身の俊英。しかしユースとして抜擢されて間もなく、孫堅が事故によって再起不能クラスの大怪我を負って長湖部は解散、以後孫権の代になるまで普通の一般生徒に逆戻りする。あるときふと初代長湖部員の名簿を見ていた孫権が彼女の名前を見出し、自分と同じ中等部三年生の彼女を再度幹部候補生のユースとして招いた。
呂岱はお決まりの幹部候補生名物各棟へのたらい回しを経て軍才・吏才を示すと、夷陵回廊戦から間もなくの頃に交州校区総代に大抜擢された。当時交州校区は学園辺境の一角で、中央のいざこざなど何処吹く風とばかりに、士一族の領有として彼女らが繁栄を謳歌している場所であり、あくまで長湖部は協力関係としてむしろ舐めてかかっているという状況であった。実際士一族の勢力基板はかなり強力、しかも学園都市全体のルール上許されないような融通を利かせることで山越・五𧮾とも不可侵同盟に近い関係を持っていた(交州に基盤を築いた士燮は見て見ぬフリをしていたが、同盟の対価として明らかに立場の弱い一般生徒を売春目的で両校に送りつけていたとも)。呂岱は最初に交州対応に入っていた歩隲のアドバイスもあって、じりじりと交州校区を長湖部に靡くようにしていき、やがて士一族勢力を交州から追放して同地の支配体制を確立させた。交州校区併合という大事業を成し遂げた呂岱は、長湖部の中枢に戻り陸遜と並ぶ武略の重鎮として遇されるが、折しも「二宮事変」で長湖部は内乱寸前の事態にまで発展する。呂岱は自分の意見ははっきりと持ち、何よりも誠実で真面目な性格の持ち主であったが、それが悪い方面に発揮され、歩隲の顔を立てる形で孫覇派に与して陸遜らと対立することになってしまう。これは彼女にとっても痛恨の大失策であり、卒業する直前歩隲に「あんたに対する義理も全てかなぐり捨てて、私を正してくれたあのひとの遺志を継いで己の信じる正義を貫くべきだった」と、絶縁にも取れる言葉を叩き付けたという。
その「あるひと」に関して、かつて交州校区総代だった時代に親しくしていた徐原なる先輩がいたといい、その徐原は呂岱に落ち度があると公式の場でも堂々とそれを非難したという。しかし呂岱は常にその言葉に従って自分の行動を改め、徐原が卒業するにあたり「これで自分の行動を常に見守って、正してくれる人がいなくなってしまった」と涙したという。この徐原、部の活動記録には末端構成員の中にすら該当する名前が見当たらず、「実は別の人物(更にいえば、当時交州学区に左遷されていたこの人)のことを指しているのではないか?」という説もあるようだ。


-史実・演義等-

呂岱 一六一~二五六
字は定公、広陵郡海陵の人。元々は郡や県で役人をしていたが、中原の戦乱が激しくなってくると南方へと移住してきた。
孫権が呉の勢力をまとめるようになった頃、呂岱は孫権の元に出向き呉県の丞となったが、孫権が郡県の丞たちを一同に集めて業務報告をさせた際、孫権は呂岱の事務処理と質問に対する受け答えに見出すものがあったようで、即座に幕府に呼び戻して録時の官職に就けた。その後、再び地方に出て、山越系の不服住民反乱の平定に功績をあげ、荊州攻略の際には荊州三郡(長沙、零陵、桂陽)の奪取にも貢献している。
二二〇年、呂岱は歩隲の仕事を受け継ぐ形で交州刺史となり、着任してすぐに交州に根拠を構える不服住民の慰撫と征伐に当たった。二二六年に、それまで交州に隠然たる勢力を築いていた交阯太守士燮が世を去ると、呂岱は士一族勢力を払拭するため交州をふたつに分割した。それに反発した士一族が軍を動かすと、呂岱もすかさず軍を動かした。士一族を撫で斬りにした呂岱は、再び交州をひとつに戻し、更に南の地方を平定していった。
二三一年、交州から呼び戻された呂岱は長沙の護りにあたった。潘璋が世を去ると、その兵士を統率することとなり、その五年後に潘濬が亡くなると、その仕事を引き継いで荊州の公文書を決裁する重責を与えられた。その間も、周辺の不服住民反乱を平定する活躍を見せ、交州の反乱が起こると自ら願い出てその平定の任に当たっている。その頃には呂岱も既に八十歳を越える老体となっていたが、生活は質素を旨として仕事に励み、職務は自分の手で処理していた。
呂岱は「二宮の変」の折、魯王孫覇派に属していたが、その混乱が収束した後も特に咎められる事もなく、陸遜亡き後の上大将軍に任ぜられ、呉の首都である武昌周辺の守りにあたった。武官の最高位まで登りつめた呂岱は、二五六年に亡くなったが、その年齢は数えで九十六歳であったという。
呂岱は呉郡出身の徐原という人と付き合いがあり、徐原が気概と才能と志を持っていることから親しく交わり、衣服を与えるなど厚遇した。徐原は推薦を受けて御史の位にまでなったが、徐原は直言の士であり、親交のある呂岱にさえ、その行動に過失があると必ず諌言し、時に人前で呂岱を非難することさえあった。しかし呂岱は徐原のこうした行動にかえって尊敬し、徐原が亡くなると「徳淵(徐原の字?)殿は私にとってまさに益友というべき人である。その人に先に死なれ、私の過ちを指摘してくれる者はいなくなってしまった」と、その死を嘆いたという。この話は、人々に美談として語り継がれたという。


-狐野郎が曰く-

一般的にはほとんど名前が知られていないが、内患平定のプロフェッショナルとして、コアな三国志ファンのなかで密かに高く評価されている呂岱は、正史にその年齢が明記されている人物のなかではトップクラスに長生きをしている。というか、なんと劉備と同い年だったりする。しかも死ぬまで現役の将軍として活躍している(挙句にそれが史実である)んだから、ある意味黄忠以上に「老将」という二つ名がしっくりくるだろう。余談だが(本当かどうか知らないが)魏書にはとある伝の注釈で解説されている人に百八歳まで生きた人がいるので、呂岱は三国志内では第二位の高齢になる。
呂岱も歩隲同様、「二宮の変」では陸遜と対立する形を取ったが、呂岱の場合、交州統治の先輩として歩隲の顔を立てるつもりで、孫覇擁立というより歩隲に味方した、というのが正しいだろう。それもそれで問題だし、案の定歩隲共々裴松之激おこ案件になっている。まあ、そうなるな(財団中国支部的諦観)。
例によって、こういう高齢で世を去った(と思われる)人物の設定を補完しようとすると、狐野郎は中等部からということを考えてしまうわけである。ただし呂岱の場合、正史でも年齢がわかっている割には前半生が不明瞭なので、その名が出てくる頃には丁度高校一年生くらいになっているわけであり、史実で年下の孫権や陸遜が呂岱よりも年上という事態が発生したりもするわけで。とはいえ、どこぞの廖化みたいに生き霊になって参加していたとか言うのも何か違うし、張昭みたいに長々居座るような理由もないしで、丁奉同様やはり純粋に活動年数が長かったというほうがしっくりくるだろう。
そして狐野郎のやってしまった虞翻との微妙な関係。無論史実ではありません。だが徐原との関係を考えれば、もしかしたら史実でも皮肉屋の虞翻と巧くいっていたのかもわからんね。実際虞翻の上奏文、結構残ってたりするしね。