解説 郭嘉


-学三設定-

学園最大のエリート集団で、のちに蒼天会の中心となる潁川組のひとり。しかし彼女は例外的にかなりの変わり者で、ヤンキーと呼ばれるほどではないもののとにかく素行が悪く、よく授業をサボっては校舎裏でぼーっとしながら煙草をくわえてる姿で目撃されていた。
智謀機略の冴えはオールマイティの曹操でさえわずかに及ばないという天才少女であるが、彼女は無駄に自分の名を売ることはなく、半ば隠者のような毎日を過ごしていた。とかくクールで人付き合いが悪い彼女は、袁紹に無理やり招致されたときも面倒臭そうな態度をとって早々にその場を立ち去っている。「清流会」で同郷の令嬢でもあった荀彧とも昔なじみだったようだが、その関係から何故か同じクラスになる機会が多く、そこで学級委員長を務めていることが多い陳羣とは天敵同士ともいえる関係であった。曹操と出逢ったのもそんな荀彧の推薦であったが、曹操が運命を感じた以上に郭嘉も曹操の持つ「なにか」に心を動かされたらしく、なし崩し的にその総参謀のポジションに着いた。荀彧が「顧問」なら、郭嘉は文字通りの「参謀」であり、袁氏生徒会との決戦に計り知れない功績を残す。決して荒事は得意ではないが、常に前線に赴き、鬼気迫る表情で嬉々として指示を飛ばす彼女の姿に曹操は元より、プライドの高い賈詡すらも「こいつは生まれついての純粋すぎる軍師、こんな奴に敵うわけがない」と敗北を認めていたほどであった。
だが、一方で彼女は中等部に入って間もなくから原因不明の難病である若年性のALS(筋萎縮性側索硬化症)に冒されており、それがために長く生きられないことを知っていた。何事にも興味を示さず不良生徒みたいな振る舞いをしていたのもそうしたことへの絶望感があったからであったが、彼女は曹操の元で最後に一花咲かせようと奮戦し、文字通り命を賭けたことを、やがて曹操に打ち明けた。彼女はその肉体が動く最期の瞬間まで曹操の覇道をサポートする誓いを立てるも、烏丸高校のバイク軍団を撃滅し華北四校区の平定を成した瞬間、急速に症状が進行し指一本すら動かせなくなってしまった。彼女は病床にあっても最期の瞬間まで、曹操に色々伝えようとするも、その多くは彼女へ伝わることなく、リタイアから二ヶ月後に世を去った。丁度その頃は曹操が赤壁島決戦で敗れた直後くらいで、親友の訃報を聞いた曹操は人目を憚らず泣き喚き、それがために向こう一週間の間蒼天通信の活動が滞ったという。
また秘話に類することであるが、とある少女が彼女が眠る墓地で、郭嘉の霊に出逢って「友達」のことを託されたという。その少女が誰であるか、彼女が言う「」が誰であったのか、信頼できる公式記録には一切記されていない。


-史実・演義等-

郭嘉 一七〇~二〇七
字は奉考、潁川郡陽翟県の人。
若年より将来を見通す見識を持っていたといわれたが、漢の治世が乱れることを悟った郭嘉は、二十歳そこそこで姓名事跡をくらまして隠棲。英雄傑物と思われる人物とひそかに交際を結んだため、世間にその名が知られることはなく、荀彧など優れた見識を持つわずかの士人が彼を評価する程度であった。隠棲時代に袁紹の元に出向いたことがあったが、彼は退出間際に同郷の郭図や辛評へ「袁公(袁紹)は徒に士人にへりくだることしか知らず、人物を用いる機微には欠ける。結局、覇者たりえることはないでしょう」と放言し、まもなく立ち去ってしまったという。
同じ頃曹操の幕僚に戯志才という人物がおり、曹操は策略に優れていた戯志才を相談役としていたが、早くに亡くなって曹操を悲しませた。曹操がその代わりに、策を相談するべき人物を荀彧に求めると、荀彧は郭嘉を紹介した。果たして召しだして歓談した曹操は彼をことのほか気に入り、郭嘉も「このお方こそわが主君だ」と喜んだという。まもなく曹操は上奏し、郭嘉を司空軍祭酒に任じてつき従わせた。このとき、郭嘉は二十七歳であったといわれる。呂布攻撃に参加した際、長期戦の様相を呈して軍の士気も思うように上がらず、曹操は一度撤退を考えたが、郭嘉は諌めて敢えて攻撃続行を進言したため、荀攸の水攻めもあって呂布を捕殺することができた。
郭嘉は優れた人物観察眼の持ち主であったことが知られており、郭嘉伝にはその事例がいくつか記されている。例えば呂布によって徐州を失った劉備が曹操を頼ってきた際、劉備の将来性を見抜いて上で殺すように進言したこと(このとき、荀彧が声望のある劉備を殺すことに理はないと説いたため、曹操は劉備殺害を思いとどまっている)。孫策が江東を制圧し、その勢いで許都襲撃を目論んでいるという噂が流れたときは、孫策を評して「孫策が江東平定で打ち破ってきたものは英雄豪傑も多く、そうした者たちの残党も数多くいるのに軽視して備えようともしない。それゆえ、いずれは名もなき匹夫の手にかかって死ぬだろう」と予言めいた評価を下したが、その言葉通り、まもなく孫策は暗殺されてしまったということなどがそれである。後者に関しては、一説に郭嘉が孫策を敵視する者達を裏で操って暗殺させたとも言われる。
袁氏勢力を河北から一掃したあとも、烏丸族を頼って袁尚らが逃亡した際、群臣たちは背後で曹操留守を狙う劉備や劉表を警戒し、北伐に懸念を示したが、郭嘉は「座して動かない劉表や、その劉表の元で飼い殺し同然となっている劉備など放っておいても問題はない。むしろ烏丸族と結託して逆襲に出てくる可能性のある袁尚一派のほうこそ先に片付けるべきだ」ということを主張した。その進言を受けて曹操は北伐を決行、郭嘉もそれにつき従ったが、郭嘉は運悪く病魔を得、遼東の柳城の地で病死してしまった。数えでまだ三十八歳の若さであったという。曹操は幕僚団の中でも最年少に位置した郭嘉の若死にをことのほか悲しみ、のちに南征に失敗して帰還すると「郭奉考が生きていれば、このような目に遭わずにすんだものを」と嘆き、あわせて「哀しいかな奉考、痛ましいかな奉考、惜しいかな奉考」と、長嘆したとも云う。
また、郭嘉は生前不品行な面があったことで知られ、度々陳羣と衝突していたが、曹操は郭嘉の才能を愛して不問とし、陳羣にしてもその品行方正さを高く評価していたという。その一方で、郭嘉の人物が余り周囲に受け入れられていなかったことを嘆いた内容の手紙を、荀彧に送っていたという。


-狐野郎が曰く-

「純粋軍師」。「蒼天航路」で賈詡は郭嘉をそう評し、「敗北感を味わうとともに、危うさすらも感じる」と述べている。まさしく戦場に戦う軍師として生き、そして燃え尽きていった郭嘉は「若死にした人」の代名詞的に言われることもあるのだが、意外にも彼よりも早死にした人はかなりいる。「いずれ匹夫の手にかかって死ぬ」と予言されてしまった孫策なんかその最たる例だし、同じ孫呉の人間でいえば凌統だって二十九というあまりにも若い年齢で病死しているのだ。というか何気に周瑜より長生きしてるんだよな郭嘉って。若死にとは一体
実際曹操に非常に愛された人なのは確かであり、その死のエピソードもそうだけど、実は何気に史実だった陳羣とのいざこざに際してはどっちの顔も立てるようにして曹操が仲裁してるんだけど、「なんでこいつの本当の姿を誰もわかってしてくれへんの」って荀彧相手に愚痴ってるのよね。曹操とは君臣というよりも気心の知れた仕事仲間というか、そんな感じだったのかも知れない。そもそも曹操だって若い頃には大分ヤンチャしまくってるし、だからこそ勝手気ままに振る舞い、しかも神算鬼謀の持ち主である郭嘉をことのほか愛したのだろう。
さて、「学三」版郭嘉なのだが、基本的に「死」という形での退場がない「学園三国志」において、本家設定で唯一「死という形で歴史から姿を消す」存在である。余談だがALSという難病は、ある程度年齢を経て発症するケースが多く(大凡三十代後半以降の発症例が大多数を占めるそうな)、彼女のような若いうちに発症することは珍しいという。しかし、この病気が如何に残酷なものか、そしてこの若さで発症することが如何に恐怖であるか…遺憾ながら狐野郎には完全に理解できない。だが、後年世界樹ログでとあるキャラが「残酷なタイムリミットを持たされ、最後の機会を全力で楽しもうとした」という方向へ走った裏には、恐らくこの郭嘉の存在が頭の片隅にあったのだと思う。そして今更だが陳羣との関係は正史よりかなりパワーアップしている。というか萌え三国的にはアホかっていうくらい理に適ってるんだからいい加減商業作品とかでも取り上げろ